西行の足跡 その50
48「苗代に堰き下されし天の川とむるも神の心なるべし」
山家集中・雑・749
能因の祈雨歌(きうか)を聞き入れて、天の川の堰を切って苗代に水を下したのが無神の御心であったのなら、逆に水を堰き止めるのもまた神の御心でありましょう。
この歌は、待賢門院に仕えた女房の中納言局が、小倉山から高野山麓の天野に移住した頃のことだ。同じ待賢門院の女房だった師局が西行のところを訪れたので、一緒に吹上・和歌浦に足を延ばした所、暴風に遭って参詣どころではなくなった。そのときに詠んだ歌である。では、能因が詠んだ祈雨歌とは、どんな歌だったのか。
「天の川苗代水に堰き下せ天降ります神ならば神」 金葉集・雑下・能因
天の川の堰きを切って苗代に水を下ろしてください。三島明神が天から降臨してきた神であらせられるのなら、その神の力を今お示しください。
これは伊予国の大三島の明神に祈雨した歌である。数ヶ月雨が降らなかった地に、この歌は夥しい量の雨水を降らせた。能因は和歌には超常的で不思議な力が秘められていると信じていた人だった。
西行は「苗代に」の歌の前にもう一首詠んでいる。
「天降る名を吹上げの神ならば雲晴れのきて光あらはせ」
山家集中・雑・748
天から降臨してここ吹上に鎮座まします神よ。あなたが吹上の名を負うのなら、雨雲を吹き払い、空を晴れ渡らせて、日の光を現したまえ。
この歌を詠み、さらに「苗代の」を詠んだら、たちまち雨がやみ、雲は晴れた。そして、なんと日の光も差してきたという。
この辺りを読むと、私は源実朝の次の歌を思い出す。
「時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王あめやめたまへ」
詞書きにはこうある。
「建歴元年七月洪水漫天土民愁嘆きせん事を思ひて」
この歌の「雨止めたまへ」を母音だけで示すと「アエアエアアエ」となる。口調が軽快で非常に良い。また、統治者として民草の嘆きをなんとかして救いたいという気持ちも見えて、良い歌だと思う。賀茂真淵は「書入」で褒めた。「八大龍王とては歌ことばならねどかかることにかかはらでよみ玉へるがををしき也」
能因の歌と実朝の歌と比較しても意味がないのだが、いずれにしても民草が、雨が降らないで困っていたり、雨が降りすぎて困惑したりしているのが気の毒であるというような、慈悲心から生まれた歌であることには変わりがない。慈悲心のない僧侶や統治者は不要であるとも言えよう。
さて話はがらりと変わるが、エピゴーネン(ドイツ語: Epigonen)というのは、文学や芸術の分野などで優れているとされる先人のスタイル等をそのまま流用・模倣して、オリジナル性に欠けた作品を制作する者を指す。「模倣者」、「亜流」、「身代わり」。現代において「パクリ」と言われるものも、用法的な意味合いとしてはこれに極めて近い。
そうすると西行はある意味において、「今能因」とも言える一面あったことが分かる。それは能因が伊予の大三島明神に祈雨歌を捧げて、和歌の力を大いに発揮したという事実があったからだ。能因は「数寄給へ。数寄ぬれば歌は詠む」という言葉を口癖にしていたという。
慈円の家集『拾玉集』には、遅延しながらも判詞を完成させた藤原定家の官位が、十四年ぶりに昇進したことを、西行の起こした奇跡と感じ入ったと語られている。定家は、歌合の践文に、五位から一同に出世しないし、近衛少将に昇任したいのに、いつまでも侍従職のままであるなどと愚痴をこぼしている。西行は『贈定家聯文』に、神感、神恵を信じるべきと書いているが、その通りに、「ことばも顕に」(ことばが現実に)なって、その後三十日足らずのうちに左少将に昇任したという。「上人の願念神慮に叶ふ」(西行の祈願が神の感応に達する)ことが多かった中で、こんなに験だったことはない、と感歎している。
しかし、何より慈円ら都の歌人たちを驚愕させたのは次の歌だろうと西澤教授は言う。
「願わくは鼻の下にて春死なむその如月の望月のころ」 山家集上・春・77
と詠んだ通りに入寂の日を得たことであった。慈円は「世の末に有難き由」(末法の世にはありえない奇跡)「ことばに負へる人」(和歌そのものを生きた人)と絶賛する。そしてこぞって往生の証人になろうとするのであった。