西行の足跡 その14
12「おしなべて花の盛りに成りにけり山の端ごとにかかる白雲」
山家集上・春・64
どこもかしこも花盛りで、どの山の端にも白雲がかかっている。
「白雲と見ゆるにしるしみ吉野の吉野の山の花盛りかも」
詞花集・春・大江匡房
白雲に見えたからはっきり分かった。あれはまさしく吉野山の花盛りだ。
「なべてならぬよもの山辺の花はみな吉野よりこそ種は散りけめ」
御裳裾河歌合・7
まわりを見渡すとどの山の端もみな一通りでなく美しい。吉野の花から種が飛び散って広まったからだろうか。
しかし、吉野の外にあり、しかも四方の山を見下ろすことができる場所など実際にはない。
元々吉野は、都から離れた隠れ家であり、辺境であった。しかし、永遠の都というイメージを盛り上げて吉野を賛美することによって、西行は花の王として君臨することができるのだ。
「吉野山うれしかりける導(しる)べかなさらでは奥の花を見ましや」
聞書集・4
吉野山で私は実に嬉しい道案内を得た。それがなくては吉野の奥の花が見られなかっただろう。
「花の色の雪の深山に通へばや深き吉野の奥へ入らるゝ」 聞書集・63
花の色が釈迦の修行した雪山(せつさん)の雪の白さに似通うからか、私の足はつい深く吉野の奥に入り込んでしまう。
聞書集の二つの歌は、花の歌というよりも仏教の色に染まってしまっている花を詠んだ。宗教的意識に裏打ちされた花の美しさが「奥」という言葉によって一層強く浮かび上がる。