西行の足跡 その3
出家の条
1「空になる心は春のかすみにて世にあらじとも思ひ立つかな」
山家集中・雑・723
心が空に吸い込まれるような感覚は、ちょうど春の霞が立つのに似ていたので、同じく立つなら、私もこのまま世を遁れようと思い立ったのだ。
この歌は、心の外(自然)と心の内(人事)を対応させているが、これは『古今集』以来の伝統的な詠み方であるという。そして、この歌は「遊離魂感覚」に基づくと言う。
石川啄木の有名な「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」という歌にも「遊離魂感覚」がある。西行の歌には、「哀しい剥奪感」と「心の飛翔感」が入り交じったような感覚の歌が多いと、西澤教授は言う。さて、それでは「遊離魂」とは、どういう概念であるのか。上野誠という専門家が書いた『初期万葉挽歌と遊離魂感覚』という書類から学ぼう。
引用ここから
肉体から遊離した霊魂を示す学術用語であり、分析概念である。もちろん、肉体から離れるということは、霊肉二元論的身体観に立つ霊魂観である。その元になったのは、『令義解』職員令の神祇官の「伯一人」の本注に登場する「龍遊之運魂」という言葉である。『令義解』の本注は、「鎮魂」を以下のように説明している。
潤。鎮ハ安ナリ。人ノ陽気ヲ魂ト曰フ。魂ハ運ナリ。言ハ離遊ノ運魂ヲ招キテ、身体ノ府中二鎮ムルナリ。故二鎮魂卜日フ。 (原文は漢文。書き下しは引用者)
今日「遊離魂」という学術用語は、民俗学や宗敦学において定着しているが、それは「離遊之運魂」から造られた新造語であると考えられる。鎮魂祭は、身体から遊離しないように、天皇の霊魂を体に結びつける儀礼であることが、この記述からわかる。身体の外に出てしまった魂を再び身体に戻すために招くのが「招魂」であり、ここでいう「鎮魂」とは「離遊ノ運魂ヲ招キテ、身体ノ府中二鎮ムル」行為であるということができよう。つまり、身体から霊魂が遊離することは、「いのち」の危機であり、それを再び招いて身体に戻すことが、律令神祇祭祀における「鎮魂」と説明することができる。
引用ここまで
「秋風は身を分けてしも吹かなくに人の心の空になるらむ」
古今集・恋・5・友則
秋風は人の体を切り裂くように吹くわけでもない。恋人に捨てられたからといって、体を失うわけでもない。それなのに、こんな時、人の心はどうしてむなしさを感じるのだろう。
「春霞立つ暁を見るからに心ぞ空になりべらなる」 拾遺集・別・詠み人しらず
あなたの旅立ちを見送るのが悲しくて、その暁に春霞を見、有り明けの月を見、していると私は空に心を奪われて、すっかり上の空になってしまいそうだ。
真言宗には『大日経』という経典があるという。『大日経』では、「心」と「虚空界(空)」と「菩提(悟り)」とは「三種無二」(三つでありひとつ)であるということらしい。私は宗教家でもないし、古典研究家でもないので、詳細は理解できないが、心と空と悟りは別々のもののようでもあり、分解不可能なものでもあるということだろう。
いずれにしても、西行の仏教に対する思い入れは本物だったようで次の歌などは西行の心を象徴的に表しているのではないか。
「闇晴れて心の空に澄む月は西の山辺や近くなるらん」
山家集中・雑・876
煩悩の闇が晴れて、心にも空にも悟りを象徴する清澄な月が常住する。月の入る山の端に近づいたのか、西方浄土に往生する日が近くに感じられる。
普通であれば、陰湿になりがちな出家の決断を、晴れやかに「空になる心」と表現したのは、出家を第二の出発だと考えていたからなのだろうか。