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【連載小説】耳は幸せを運んでくれた(1)
わざわざ手話を覚えて傷つけにくる人なんていない。
だから私は聞こえなくなって良かった。
*……*……*……*……*
27歳の時、突然耳が聞こえなくなった。
理由は、重度の突発性難聴。過労やストレスが原因だって言っていた。
当時、付き合っていた彼から、激しいDVを受けていたけど、私は彼から離れられなかった。私にはこの人が必要。私以外、彼をわかってあげられる人はいないって…依存しあう関係が愛だと思い込んでいた。
そして、会社でもパワハラ。父親からもモラハラ。母親は、私が19歳の頃に自殺した。
私さえ我慢すれば…。
それが、私の世界だった。そういう環境で生きていたから、私の中ではそれが普通で、疑いようのない当たり前。いつも寂しくて苦しい。そういうものだと思って生きていた。
耳が聞こえなくなった途端、私がその時に大切にしていた人達はみんな離れていった。当時は、絶望の底の底で死ぬことしか考えていない。歌や映画で気を紛らわすこともできず、一気に生活が変わったストレスも孤独を助長していた。
どうして私ばかり…。
みんなは、頑張らなくても幸せそう。私をいじめてくる同僚も、結婚して子供まで作っている。
どうしたら、そんな風に幸せになれるの?私は、頑張っても全然良いことがないのに。
私が欠陥人間になった途端に、使えない女だとみんな居なくなったんだ。そう、すべては私の耳が聞こえなくなったから。
全部私のせいだ。過労とかストレスとか…。我慢が足りなかっただけじゃない。
彼や上司や父親が怒らないようにできなかったのは、私が誰よりもダメ人間だから。
毎日、起きたくない朝が来る。次の日なんて来なくていいのに。
音がない毎日をただ生きるなんて、地獄よりも苦しい。
他に何もすることがないから、3日に1回、診察の為に病院にだけは通っていた。日に日に表情がなくなる私に、先生が筆談をはじめた。
「聴覚障害者のカウンセリングに行ってみませんか?それに抵抗があるなら、絵画教室とかはどうでしょうか。目もみえるし、言葉の発生も覚えているのだから普通に話せるんですよ。補聴器だってあるから」
そう言って、数枚の用紙を私に差し出す。断る理由もないし、それを受け取り、家に帰った。
とりあえず、新しい仕事をしないといけない。
障害者手当なんて、たかが知れている。
これまでと同じように、仕事を選べるわけじゃない。
工場のライン作業かな…。でも、やりたくない仕事に労力を使う気力がない。人が好きで、話すことも好きだったからずっと営業をしていたけれど、カウンセリングに行って人に接する事にも、喜びより恐怖を感じていた。
みんなが私をみじめな女だと笑っている。人と目を合わせられない。逃げたくなる。
毎日部屋でただぼーっとしているしかなかった。
ふと、絵画教室のパンフレットに目がとまる。
小学3年生の時、夏休みの絵の宿題で、家の前に咲いているマリーゴールドを描いて、金賞を貰ったことがあった。ただ、学年で一番を取ったってだけで、大きな賞をもらったわけではない。それでも、父も母もとても喜んでくれ、額に入れて、私が結構大きくなるまで家に飾ってくれていた。
油絵にも興味があったし、これならやってもいいかなと思い、ネットで申し込もうとしたけれど電話番号しかない。仕方なく、診療の時、先生に言ってみた。
「良かった。嬉しいな。今、連絡してみるからちょっと待ってて」
そう言って、その場で連絡してくれた。
「今度の日曜日、15時からどうかな」
もちろん、何も予定はない。私は迷わずうなずいた。
日曜日に、何も持たずに絵画教室に行く。
女性が多く、みんな自分の画材セットを持っている。
どうしていいか、ドアの前で立っていると男性の人に肩を叩かれた。
「こんにちは」
と言ったんだと思う。首をかしげていたら、携帯を取り出して音声文字変換のアプリで話してくれた。
“佐藤先生から連絡があった、内田みなみさんですよね?”
私はただうなずいた。
長身の男性。細身だけど、筋肉質な体つきで、世の中でかっこいいと分類されるような整った顔立ちをしていた。
ニコッと笑って、私を席まで誘導してくれた。
女性が多い理由は、こういうことか…。
“先に、皆さんに説明してきます。ここで座って、見ていてください”
そう言って、真ん中に立って今日のお題を説明している。
彼の名前は、高橋海斗(たかはし かいと)さん。
時々、みんなが笑いながら、何かを話している。真ん中にリンゴや花瓶があるのかと思ったが何もない。
数分たって、海斗さんが画材を持って私のところにやってきた。
なんだか、女性の視線が一気に集まった感じがするけど、何も聞こえないからそんなにビクビクしなくて済んだ。
また、携帯を取り出して私に話しかけてくれる。
“まずは、服が汚れないように、こちらのエプロンをつけましょう”
“これは、初心者の方に貸し出している画材セットです。本当は、デッサンから始めるんですが、油絵の具を使って描いてみましょう”
そう言って、いたずらっ子のような笑顔をみせた。
筆、パレット、画用液(溶き油)、ペンディングナイフ・・・
結構たくさんの道具が必要なんだな。
説明するにも、携帯で文字起こしをするから時間がかかる。
申し訳ないような気もしていたけれど、海斗さんは、面倒くさいそぶりは一切なく揚々と説明をしてくれた。
“さて、好きな色をキャンバスにのせてみましょうか!何色が良いですか?”
私は、迷わず青色の絵の具を指さした。
海斗さんはニコニコしながら、絵の具をパレットにのせてくれた。
“油絵の具は、バターのように何層も重ね塗りができるのが特徴です。でも、乾く前にのせてしまうと崩れてしまうから気を付けて”
“違う色を使いたい時は、筆を代えて。絵の具はこうやって、下からだしてくださいね。ペンディングナイフなども使ってみて、まずは、絵の具がのる感覚を試してみましょう”
“手をたたいたり、音を出してくれればすぐきますから。気にしないで呼んでください”
“間違っても大丈夫だから。楽しんで”
そう言って、みんなの方に戻っていった。
一人になって、ドキドキしながら、そっと、キャンバスへ青い絵の具をのせてみた。
はじっこの方に控えめに…。
なんか、楽しい。久しぶりに、顔がほころぶ。
もう一度やってみる。
控えめに絵の具を筆につけたら、かすれて全然のびてくれない…。
子供の頃に使っていた、水彩絵の具と全然違うな。
今度は、思いっきり絵の具をつけて、もう一度描いてみた。
キャンバスに、大きな青色の虹がかかる。
黄色い丸、黄緑の羽、藍色の空、茶色の三角、赤い星、白い雲・・・
全部試してみたくなって、たくさんの色をのせていたら筆がなくなってしまった。
ふと顔をあげると、海斗さんと目が合う。
他の生徒さんの説明を切り上げて、こっちに向かってきてくれた。
構図も色の配置も何も考えられていない、ただ色がのっただけのキャンバス。
さっきまでの楽しい気持ちが一変して、途端に恥ずかしくなる。笑われる、怒られるんじゃないかと怖くなった。
海斗さんが、私のキャンバスをのぞき込む。
恥ずかしい…。下を向いて、筆を持ったまま身動きがとれない。
うつむく顔の前に、携帯を持ってくる。
“さっきまでの笑顔をそのままキャンバスにのせたような彩ですね。良い感じです”
私が顔をあげると、そこには満面の笑顔の海斗さんがいた。
<続く>