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書評 黒部の山賊 アルプスの怪

職場の人に薦められて伊藤正一さんの「黒部の山賊 アルプスの怪」を読んだ。なかなか面白い本であった。

この本の舞台は北アルプスの奥地である黒部峡谷で、時代は戦後間も無くから黒部ダムが出きる昭和38年ごろまで。著者は三俣蓮華というところにある三俣小屋を買い取った。その頃まだその周辺は自然が厳しく未開の地であった。そこには山に暮らす山賊というか猟師たちがいて、その交流について書かれている。里とは違う彼らのルールに従った生活をしており、少し前の話であるのに現代とは随分違った感じで驚いた。山賊たちの山を知り尽くした超人的な生活力と、それでいてどこか滑稽な人間味あふれる人柄の描写が面白かった。

冒頭に濁小屋殺人事件というのが出てくる。これは直接本の内容とは関係ないのだが、当時の世相を示すものとして書かれていた。その事件の内容は以下のようである。戦後間もない頃に4人の医学生がアルプス登山を計画し、食料をたくさんリュックに詰めて電車で北アルプスに向かった。楽しそうにしている彼らを腹を空かせた復員兵2人が見て羨ましく思った。復員兵は集団の後ろをついていき、山小屋で撲殺し、食べ物を奪ってしまった。1人は幸い命を取り留め、近くの東京電力の社宅に駆け込み、翌朝警察が強盗を捕まえた。当時の世相とはこのような殺伐としたものだった。この医学生というのがどうやら我が母校の慈恵医大の学生だったらしい。戦後間も無くそのような不幸に見舞われた先輩がいたとは。(ちなみに慈恵医大は槍ヶ岳診療所を運営しており、シーズン中は医者や看護師が派遣されている。この本にも槍ヶ岳診療所が出てきていた。)

この本に書かれたエピソードは科学では説明し難い不思議なものも多く面白かった。例えば山のバケモノなど。どこからともなくオーイと呼ぶ声がすることがあり、それにオーイと答えるとおかしくなってしまい引き寄せられるように遭難してしまったり神隠しに遭ってしまう。なのでオーイと言われてもヤッホーと答えなければならないとか。河原で野営していると周りでカッパが騒いでうるさいとか。狸が小屋の周りで木を切る音や倒れる音を真似して驚かされるなどなど。人工物のない厳しい自然の中では妙なことが起こることがあるようで、妖怪が生まれる理由がわかった気がした。
また、山での遭難の話は生々しく、自然の厳しさを教えられた。夏でも雨と風のため凍死することもあるとは知らなかった。必死に遭難者を助けようとする描写が多く、山での助け合いの精神は強いものなのだなと感動した。

現代の都市に暮らす自分には経験しないようなことが書かれており、一度北アルプスに行ってみたいと思わされた。
文化人類学的にも貴重な記録であり、いつまでも読み継がれるべき本だなと思った。


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