自分がその存在を認めなければ罪は罪ではない 虐殺器官 伊藤計劃を読んで
現在、伊藤さんの世界にどっぷりハマっている。(2022年4月)
私が手をつけた瞬間に、世界情勢がガラッと変わった。
ジャンルはSFだけど、私には今、この瞬間、空想の世界とは思えない。
この世界の延長線上にあるものに感じている。
虐殺器官 伊藤計劃を読んで
(ネタばれありありのあり。知りたくないなら、読まないでw)
ハーモニーを読んでからの、虐殺器官。
順番でいうと、虐殺器官がデビュー作。
そして、伊藤さんの遺作となったハーモニーが翌年発売。
虐殺器官後の世界を描いたのが、ハーモニー。
伊藤さんが病床で途中まで書いた原稿を、円城塔さんが引き継いで書いた、屍者の帝国も数年前に映画を観ている。(2022年5月読了)
3作品を一気に映画で観た時も、この人の世界観にどっぷりハマった。
鬱を誘うアニメだった。(現実はもっとクソだと思うと、本当に人類全て宇宙人に皆殺しにされれば良いって思うけど。)
アニメになってコレなら、原作はもっとおぞましいであろうと思ったけど、原作のほうがラフで、もっとクリアで、清々しい。これは、虐殺器官も同じで、アニメより鬱鬱とはしておらず、原作の方が颯爽と読める。こんな重い題材なのに。ここに作者の力量を感じるのは私だけかな?
あらすじ1
今より少し先のミライ、アメリカ目線で話は進む。
モスレム原理主義の手作り原爆がサラエボに投下され、テロとの戦いはもう一段階上のステージへ。より安全を求めた社会は、テロを抑止する為に個人の認証システムをより高度にしていく。けど、実際はその逆でどんなに個人を特定し、追跡できる社会になっても、テロは減らなかった。
なぜなら、国内に問題がなければ、その矛先は搾取する側(アメリカなどの先進国)に向くから。
それなら、搾取される側の国に内戦をさせて、国外に目を向けさせなければ良い。
その方法として、その内戦を起こさせる為に元々人間に備わっているという設定の「虐殺器官」を刺激する言語プログラムを研究し、実験する。その言葉の羅列、文体などを使い、文章、言葉にして流す。その言語を使うだけでその国は、内戦への階段を登っていく。
私が思ったこと1
過去の虐殺が行われた時(ナチスなど)、必ず出現する言語パターンを研究し発見したっという設定が、リアルに感じたところ。人は狂気に満ちる時…
というより、良心を忘れる…理性を薄くするって言った方が良いかな?
その温度や勢いみたいなものがなければ、そちら側には進まないのではないかと思う。
今回のロシアを見ても、過去の戦争を見ても。きっと多くの当事者達は、自分は自分達の国は悪いと思っていない。日本もそうだと思う。いや、そこにどちらが悪いという概念事態がそこでは通用しないんだろう。
ハンナ・アーレントの本を読んでもそう思う。狂気ってなんなんだろうね。
また、この物語の設定で賢いのが、特定の言語だけで流すことによって、その言語圏にのみ発動し、他の国には影響がないという点。どんだけ自分の世界守りたいねんw
でも、ほんとそんなことなんだと思う。
戦争はきっと最初は「好き」と「嫌い」のとても単純な所で生まれる。好きなものを、好きな人を守りたい。そんな小さな気持ち。
それを正義だと振りかざすから、おかしな方向に世界が転がっていく。
あらすじ2
そんな世界の中で、主人公はアメリカ軍の特殊部隊員、暗殺のエキスパート。テロをアメリカ内で起こさせない為に(と主人公は思っている)、紛争地帯に行き、ターゲットを暗殺する。
紛争地帯は少年少女兵がたくさんいるが、お構いなしに殺す。民間人が虐殺されていても、任務が優先。その場で救える命よりも、その後救える多くの命の為に見殺しにする。
一瞬の判断に迷わないように、任務に向かう前に感情や、痛覚を意図的にコントロールされる。負傷した際に痛みは感じないが、知覚できる状態で向かう。(これもだいぶ怖いし、ゲロゲロだ。)
命令だから、人を殺す。そこに罪の意識はない。
私が思ったこと2
アイヒマンを思い出した。
彼も「命令に従っただけ」
ただ、この主人公は自分の母親の延命処置を終わらせる決断をしたことには、とても罪を感じている。いつも、赦されたいと願っている。(けれど、本当は赦されることを望んでないけどってのがポイントやね)
このギャップがすごい。
人がどんなに自分だけの世界で生きているか、自分だけの世界を守りたいか。私もそうだし、きっと多くの人がそうではないか。自分以外の人の為に生きていける人がいるなんて、私は信じてないから。だって、他人の為と言っても自分の為だもん、結局。
このギャップを主人公もそうだし、主人公が追跡している言語学者も、他の登場人物も皆、このギャップを持っている。
それを守る為なら、罪を犯すことも厭わない。
その罪は赦されたいとは思っていないんだよね。
一緒にいたいんだよね。
それが自分の存在証明のように。
自分に都合の良い罪は背負うくせに、赦されたいと願うくせに、見たくないものには目を背ける。罪とは思わない。なんとも人間っぽい。
主人公が守りたいと思っていた人も殺され、裁こうとする人も殺される。
そして、彼はアメリカを、世界を虐殺器官を刺激する言語プログラムで戦争へと導いていく。
その人が生きていく為に必要だと思っているものを壊せば、外の世界は失われてるのだ。
綺麗事を並べても結局は、自分に利益のある行動しかできない。
ハンナ・アーレントを度々出して申し訳ないのだけど…
この本読んでる間中、頭の中で「エルサレムのアイヒマン」がよぎるのだからしょうがない。
他の名言集だったかもしれないけれど、彼女が言っていたことを、超絶簡単に書くと(ちょっとここ、私の記憶が曖昧だから、間違ってたら、直す)
やらなければ自分が殺されてしまう状況で、人を殺す、殺さないの選択を迫られた時、自分の良心によって「人を殺さない」という選択肢がなされていると思っているの?
自分が人を殺してしまったという事実を背負って生きていけないから、人を殺すという選択肢をしないだけだと思うわよ。
でも、その背負って生きていく覚悟が責任だし、生きていくことだと思うのよ。
どうやったら世界を好きでいられるのか疑問に思ってしまう。今日この頃。
いつもそこに、自分が判断したと思える決断に、責任を持てているかな?
それにしても、伊藤さんが今でも書いていたら、いったいどんな世界をみせてくれたのか…。
凡人には計り知れない。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?