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逃げるべきものと逃げちゃいけないものとの見分け方

結論から言うと、
他者(環境)から与えられる苦しみは逃げるべき。
自分から与えられる苦しみは逃げちゃいけない。


パワハラやいじめ、ブラックな環境など、環境を変えればすぐに解決できる苦しみは逃げるべき。
さっさと逃げることが一番の得策だ。


しかし、失敗への恐れや劣等感や自分の心のモヤモヤなど、そういった環境を変えても解決されないものや環境を変えても繰り返し起こる苦しみからは逃げてはいけない。

そういった自分によって作られる苦しみはいくら逃げようとしても逃げきることはできない。一生付きまとう苦しみだ。
そのため、自分と向き合おうとせずに逃げれば逃げるほど、逃げ道がなくなってしまう。


アーチャン・チャー以下のように言っている。


自分によって作られる苦しみは「苦しみを終わられるための苦しみ」を経て自分自身が成長することで、苦しみを終わらせることができる。

つまり「苦しみを終わられるための苦しみ」から逃げていては、自分の作った苦しみから解放されることはない。


話は変わるが、ぼくはいつも「不登校でもいい」「学校から逃げていい」と言っている。

しかし、それは他者(環境)から与えられる苦しみから逃げていいという意味であり、決して自分から逃げていいという意味ではない。

自分のやりたいことや努力することから逃げていると結局苦しくなるのは自分自身だ。

例えば、不登校になって、勉強をしなくなったことで、勉強することが怖くなる子が少なくない。
それは、勉強自体が苦しいのではなく、自分自身と向き合うことが苦しい。つまりは「苦しみを終わられるための苦しみ」が苦しいわけだ。

しかし、当然ながら、勉強に対する苦しみは勉強することでしか解消されない。
いくら別のことをやって勉強を見ないようにしても、ずっと心に痛みが残る。

それにも関わらず大人が「勉強しなくていいよ」と言ってしまうのは、「苦しみを終わられるための苦しみ」を放棄させてしまうのと同じだ。
その子をこれからもずっと「勉強」で苦しませることになってしまう。

果たして、それが本当に「子どものため」なのだろうか?

大人の役割はただただ子どもに逃げ道を作ってあげることなのだろうか?

もちろん物理的・環境的に逃げ道を作ることも必要だとは思う。

しかし、それ以上に大切な大人の役割は、逃げるべきものと逃げちゃいけないものを伝えること。
そして、子どもを信じて、励まし、応援し続けることではないだろうか?



近年、不登校問題がメディアでも大きく取り上げられるようになってきたが

「子どものため」が本当に「子どものため」になっているのか?
改めて、大人たちが考えるべきだと思う。

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