「ら抜き言葉」は日本語の乱れなのか
現代では,多くの日本人が「日本語の乱れ」を問題とし,それを批判している。しかし,実を言うと,本質的にこれは"現代"だけで起こっている問題ではない。
うんちくクリシェ*であるものの,紹介する。清少納言は『枕草子』にて以下のようなことを述べている。
「最近の若者は…」と言うことをいう輩の発生は,何も最近のことなのではなくて,約1000年前にも居たのである。
さて,では,「いはむずる」と言う言葉は本当に間違った言葉遣いなのだろうか。現代に当てはめて考えれば,「ら抜き言葉」は本当に日本語の乱れなのだろうか。
今回のnoteでは「日本語の乱れ」の問題を深掘りし,今までの標準語制定の歴史も踏まえてその是非を考察する。
また,途中途中で,雑学を挟んで皆様に楽しんで頂こうと思う。何より,この「日本語」に関する話は私が特に好んでいるものであるから,是非とも最後まで読んでほしい。
ら抜き言葉を具体例に挙げつつも,今回取り上げるのは「日本語の乱れ」および「言語の乱れ」についてである。よって,ら抜き言葉などの具体例の是非については後半にて後述することになることは,あらかじめご了承いただきたい。
0.「ら抜き言葉」とは
この記事を開いていただいた方であるから,ほとんどの人にこの説明は必要ないと思うのだが,念のため行う。
ら抜き言葉とは,例えば,「食べる」に可能の意味の助動詞「られる」をつけた際,その「ら」が省略されるという言葉遣いのことである。
具体的には,
「食べられる」が「食べれる」
「投げられる」が「投げれる」
などといった変化のことである。
さて,ちょうど良い機会であるから,ここで一つ述べておきたいことがある。それは,厳密に言えば,「ら抜き言葉」は「ら」を抜いているわけではないということである。
日本語の表記法である「ひらがな」では理解し難いことなので,アルファベットを用いて説明するが,例えば「食べられる」の場合であれば:
taberareru → tabereru
に変化する。確かに,「ra(ら)」が抜けているように見える。
しかし,「歩かれる」の場合はどうだろう? 歩かれるには,「ら」が含まれていないが,──あえて「ら抜き」と表現すると,──「ら抜き」を「歩かれる」に適応するなら,「歩ける」に変化させることができる。つまり,「ら抜き」は,必ずしも「ら」を抜いているわけではなさそうなのである。
具体的に,アルファベット表記で「歩かれる→歩ける」を見てみることとしよう。
arukareru → arukeru
ここから見て取れるのは,arが抜けているのではないか,ということである。先ほどの「食べれる」の例も見てみよう。
taberareru → tabereru
こちらも同様に,ar抜きがされていることが見て取れる。
よって,この現象を「ら抜き言葉」と呼ぶのは正くないのである。厳密にいうなら,「ar抜き言葉」というべきであるのだ。
──とはいうものの,私も「ar抜き言葉」のことを「ら抜き言葉」と呼んでいるし,論文等でも「ar抜き言葉」と表記することはなく,「ら抜き言葉」とこれを呼んでいるため,特段問題はないのだが。ただ,実は「ら抜き」じゃないんだよということを知ってもらいたかったから,この説明をした。
以上は余談である。さて,ここからは少しディープな話が展開されていく。
しかし,ら抜き言葉の現状やその後,言語学的な観点からの評価,また,それらが「乱れなのか」などに興味がある方には,ぜひ読んでいただきたい。
ここから先は
¥ 980
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?