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「言語と思考」の本質を考える

 本日、大学からの帰り道で見ていた「ゆる言語学ラジオ」で、本当に面白い話をしていたので、ぜひ共有させてください。


 この回では、”視覚思考者(ビジュアルシンカー)の方々の考え方が面白い!”というトピックで話されています。実は、私自身、おそらく「言語思考者(ヴァーバルシンカー)」なので、そもそも視覚的な情報で思考する人がいるなんて考えたことすらありませんでした。

 でも、この動画を見ているとさらに思うことがあったのです。
俺はもしかしてビジュアル思考型なのかも…?」ということです。

「いやいや、さっき自分で『私は言語思考型なので』って言ってたじゃん!」というツッコミが入りそうですが、いや、少し話を聞いてください。

 私は、おそらく、いや、間違いなく、いわゆる言語思考型に分類されます。
 しかし、そもそも言語は視覚情報などを音に変換したものなのだと仮定するならば、私どころか全ての人間も本質的には「ビジュアルシンカー」なのではないか? ということも同時に考えられますよね?(暴論)


 また、別の見方をするならば、私のような「言語思考者」は言語、音などに「意味」を感じ、印象思考者は絵や現実の物体、それらのイメージなどに「意味」を感じるのでは? という仮説を立てることもできると思います。

 詳しいことは今後展開しながら考えるとしましょう。


 ということで、今回は「ビジュアルシンカー」と「ヴァーバルシンカー」の話題から考える、言語と思考の本質について私の見解を話します。


 ただ、その前に。
 私はこの後に話す内容的に、ビジュアルシンカーの日本語訳として、視覚思考者と言うのは相応しくないのでは? と思っています。無論、「ビジュアルシンカー」(Visual thinker)なので、英語でも視覚、と言っていますが、実際のところ、イメージや印象で思考する、と言った方が正しいのでは? と思っています。そのため、アスペクトシンカー(aspect thinker)、つまり「印象思考者」と表現した方が言い得て妙な気がしています。

 そのため、タイトルでは視覚思考者ではなく、印象思考者と書いています。


印象思考型・言語思考型とは


 印象思考型・言語思考型という言葉に聞き馴染みがない方は多いと思います。ほんの1000文字程度の記事ですので、上に貼った「ビジュアルシンカーとは?」という記事を一読されるとこの後の内容が理解しやすいと思います。
 ただ、読まれなくても問題はほとんどないと思います。何より、「印象思考」とか、「言語思考」とか、言葉通りの意味ですからね。


言語とは

 そもそも根本的に、「言語」ってなんなんだろう? という話を深掘りします。

 皆さんは、「言語とは」ということを説明するなら、どのように説明しますか? 私なりの説明も後にしますが、先にWikipediaで語られている定義を引用しようと思います。

人間音声文字を用いて思想感情意志等々を伝達するために用いる記号体系[2]。およびそれを用いる行為(広辞苑[2])。音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現したり伝達する、あるいは他者のそれを受け入れ、理解するための約束・規則。および、そうした記号の体系(大辞泉[3])。

Wikipedia「言語」: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E

 ここで踏まえて欲しいことは、言語とは記号であるということです。あるいは、「アイコン(イコン, icon)」、「像(idol)」と表現しても特に問題ないでしょう。

 ここでいう「記号」とは、ある物体、あるいは事柄、現象、そこから発展した抽象的な概念までも含んだものに「名前」を付けたもののことです。

 たとえば、「🍎」という果物ありますよね? 日本語では、この果物を「リンゴ(ringo)」と言います。この「リンゴ」という名前は、「🍎」という概念(物体)に名前を付けただけのものですよね? この場合、「🍎」が「リンゴ(ringo)」である必要性はどこにもないのです。

「そうかな?」と思う方もいるでしょうが、それは言語の多様性が証明しています。同じ「🍎」を、日本語では「リンゴ(ringo)」というのに対し、英語では「アップル(apple)」、フランス語では「ポム(pomme)」と言いますよね。いずれも、「🍎」を表現し、意味するために別の記号を用いています。

「🍎」という対象に「リンゴ」と言う名前をつけ、その「リンゴ」に「🍎」と言う意味を付与し、その「意味」を社会全体で共有する。それができて、初めて「記号」としての言語が実際に使えるようになるんです。なんとも不思議ではありませんか?

 ちなみに、この「社会全体で共有される言語の記号体系」のことを「ラング(langue)」と言います。逆に、「具体的に個人がラングの規則に従って言語を用いる発話行為」のことを「パロール(parole)」と言います。いずれも、哲学者であり言語学者であるソシュールが作り出した概念です。


 少し雑な説明でしたが、言語の記号的側面についてはわかってもらえましたでしょうか?

 では、音(記号)と意味の関係について考えてみましょう。


■音が意味を持つ

 私たち日本人が用いる言語、日本語では、もちろん「文字」が使われていますが、世界的に見ると文字をもつ言語というのは珍しい部類になります。
 ご存知の通り、古代の日本人は独自に文字を作り出すことはせずに、中国から漢字を借用して日本語の音を表していたことからも明らかです。

(その後、漢字を改良することでひらがなという表語文字を作りましたが、それは漢字ありきのことです。)

 また、歴史上、世界の最前線を走り続けているヨーロッパにおいても、彼らは文字を生み出すことはせず、地中海東沿岸に住んでいた人々が生み出したフェニキア文字を借用しています。

(フェニキア文字がギリシアに伝わり、彼らがフェニキア文字を改良して「アルファベット(αβ)」を作りました。そこからそれがローマ(イタリア半島)に伝わり、彼らがまたそれを改良(?)して現在のアルファベットとなりました。今後この話は深掘りしようと思いますが、フェニキア文字には「母音」を表す文字がなかったため、ギリシア語やラテン語を表記するのには困ったんですね。)

 そのため、言語を「文字」として考えるのではなく、ここでは「音」として考えていこうと思います。


 言語では、先ほど述べた通り対象(視覚)に名前という「音」を定義し、その音が「意味」を持つ状態を作りますよね。
 私のような言語思考者は、その音を脳内で用いて思考します。あるいは文字です。しかし私の場合にはなりますが、文字で思考することは全くないです。こうして書くことで思考することはありつつも、それは文字として認識しているのではなくて、音として認識した上で思考しているわけです。

 逆に、印象思考者はそれを視覚的なイメージで思考するのですよね。実はこれを執筆中に兄に相談してみたら、兄がまさかの印象思考者だったため色々質問してみたんです。
 兄曰く、「基本はモノクロで、色がついている場合もあるが、それは現実の色と必ずしも対応しているわけではなくて、色ごとにもつイメージ(印象)がそのモノクロのイメージに意味を追加するような感じ」であるそうです。また、「思考するときはイメージが浮かんできて、そのイメージがそれぞれ意味を持ってて、そのイメージが合体したりして考えがまとまってくる」のだそうです。

 兄の言うことは私には全く理解できませんが、兄は写真を撮るのが好きでよくカメラを持ち歩いているので、私とは世界の見え方が少し違うのかもしれません。

 これがきっかけで、言語思考者は「聴覚的情報」に意味を強く感じ、印象思考者(視覚思考者)は「視覚的情報」に意味を強く感じるのでは? という仮説がなんとなくあっているような気がしました。


■「言語」の種類

 第一に思い浮かぶのは、コミュニケーションの道具としての「言語」です。これは、言語学的(?)に言うなら、「個別言語」と言います。「日本語」「英語」「韓国語」などのように、ある特定の集団で見られる情報伝達の手段としての意味合いで使われる「言語」です。

 そして、このコミュニケーションツールとしての言語は、音声や文字によるものだけでなく、身振り手振りで表現するものも含まれています。手話に限らず、「すいません」とするときにお辞儀することも、言語に含まれると言うことです。


 第二に考えられるのは、思考する際に用いる「言語」です。
 今回の本題である、「言語思考者」であれば、これは間違いありませんが、「印象思考者」であれば、思考の際に「イメージ」や「パターン」、「概念」で考えるそうです。無論、その両方を使って思考するタイプの方もいます。そのパターンの人が最も多いそうです。

 私のような「言語思考者」であれば、こういったnoteを書くときは「文章」を書いて考えます。変な話ですが、書きながら考えをまとめるんです。というか、こうやってnoteを書くことで考えがまとまってきます。
 普段の場合は、頭の中で独り言を言うような感じで考えをまとめるか、あるいは話しながら考えをまとめます。

 考えの終着点がどこなのかわからないまま話を始めたとしても、話すこと、つまりは「言語を使う」ことで考えが勝手にまとまってくるので、きちんと私の考えや思想に相反することなく正しい答えを導き出すことができます。

(でもめちゃくちゃな理論を出してしまうこともあります。なぜなら、話し始める前に考えがまとまっていないことが多いからです。論理的ではあるけど、理論としては破綻している、なんてことはしばしばです。)

 逆に「印象思考者」であれば、おそらく「図」でまとめるのでしょう。あるいは、「絵」であったり、頭の中にある「写真」のようなイメージを並べたりして思考します。
 そのため、話しながら考えをまとめることはできないかもしれませんが、私にはできないことを彼らはすることができます。
 つまり、話す前に考えをまとめる力があるのです。

 そういった方であれば、言語化能力が必要なのかもしれません。いや、だからこそ「言語化」なのでしょう。私は言語を言語のまま話しているので、何も変換する必要がないんです。だから、話すのが早いんでしょうね。しかし、彼らは「イメージ」を「言語」に変換する必要があります。

 これこそまさに、一長一短ですね。
 現代では言語能力に長けた人が出世しやすいですが、私みたいな人間がパッと見でわかりやすいデザインを考え出すことはできません。そう言う仕事は明らかに私のような言語思考者には向いていないんです。
 それと同じで、印象思考者がすぐに考えを言葉にすることができないのだとしても、それは大きな問題ではないでしょう。


ここから有料ゾーンになっていましたが、無料公開することにしました。

言語思考者と印象思考者

 印象思考者の方々は「イメージ」などで思考する、と言いましたが、言うなればそれは「表意文字」で思考しているのと同じなのでは? とも考えることができます。

(表意文字とは、アラビア数字のようなもののことです。発音を持たず、意味のみを持つ文字ですよね。ちなみにヒエログリフは表語文字です。つまり、意味と発音の両方を持っています。アルファベットは表音文字です。音のみを表し、意味は持ちません。)

 しかし、冒頭で話した通り「言語=視覚情報→音情報」なのだと考えれば、私たち言語思考者は「印象」で思考しているとも言えるかもしれません。


「私は言語思考者なのか、印象思考者なのか、どっちとも言えるじゃん!」と言うのが、兄の話を聞く前に感じていた正直な気持ちです。強調しておきますが、私は言語思考者です。しかし、言葉の上では「言語思考者である」とも、「印象思考者である」とも、なんとでも言えてしまいますよね。
 それに、私は英語学習中に気を付けていたことがあったんです。その経験がさらに私の混乱を悪化させていたのだと思います。

 英語を本格的に勉強し始めた時のこと、つまりは高校1年生頃ですが、

「『日本語to英語』は非合理的で、非効率的だ。だから、『英語は英語で考える』べきだ。しかし、英語を英語で考えるのは難しいな…。なら、私は日本語の時にどうやってやってるだろう?」

 このようなことを考えていました。この時私が出した答えは、「日本語の時は日本語で思考している」と言うことでした。しかし、それではなんの解決にもなっていないので、そもそも言語はどう言うものなのかを考えました。そこで出てきた考えが、「言語はイメージを音に変えたものだ」というものでした。

「それを英語学習に取り入れよう!」

 そう考えた私は、たとえば

Book = 本(ホン)

 ではなく、

Book = 📖

 だと認識することから始めたのです。それを、全ての単語で感じられるように訓練しました。その結果、英語の文章を読む時や、構成するときに、日本語を介する必要はなくなったのです。

 結局、その訓練が終わった後は、イメージto単語ではなく、単語は単語として考えていたのです。つまりは、慣れた後は日本語と同じように、英語の時はイメージを介することなく英語のまま考えるようになっていました。しかしこのことは今だからわかることであって、高校生の時の私は普通にイメージを元に思考しているのだと考えていました。


 この経験があるせいで、「私は言語でもイメージでも思考できる」という誤った考えが浮かんだのだと思います。いや、もちろん、中には「言語と印象」の両方を思考に用いることができる人もいるのでしょうが、私が兄の話を聞いた時の「意味不」感からするに、私はイメージで思考することができないタイプの人間なのです。


■印象思考者は動物的?

 よく、「動物は言語を持たないから意思疎通をしない」という意見が散見されますが、私はそうとは思いません。
 上で話した内容的にですが、動物は「印象思考」をしているのではないでしょうか。正直言って、彼らが言語を持たないのは明白です。しかし、それは思考しないことの証明にはならないでしょう。
 そして、思考するのであれば、多少の意思疎通をする、と考えた方が自然ではありませんか? 現実に、社会的行動をする動物は数多く存在しますし、私の家族である猫も、どう考えても思考しています。し、2匹いるのですが、彼女らの様子を見ていると「意思の疎通」をなんとなく行なっている気がするのです。

 もちろん、「シャー」と威嚇したり、「ニャー」と鳴いて「音」で伝え合う場合もありますが、見つめあったり、お尻の匂いを嗅いだり、毛を膨らませたり、そういうなんというか、視覚的な情報もたくさん持っている気がするのです。

 特にアリなどの小さな生き物であれば、もしかしたら「匂い」という嗅覚的情報に「意味」を持たせて意思疎通していることも考えられますよね。あるいは、「味覚的情報」の可能性もあるでしょうが。

 私は、これらは決して机上の空論でもなんでもないと思うのです。実際に考えうる現実だと思います。

 また、「ビジュアル・シンカーの脳 「絵」で考える人々の世界」を著したテンプル・グランディン(Temple Grandin)は動物学者です。


■仮説について

 私はそもそも、言語学を勉強していますが、その中でも認知言語学に興味があります。なぜかというと理由は曖昧ですが、哲学に興味があることや、昔から「本質」を考えるのが好きなこと、そして何より、そうした哲学的思考は言語能力に依存しているのだという考えが根底にあるためだと思います。
 そして、だからこそ、「全ての人間は言語を思考に使っているから、言語が哲学的な思想などにも影響する」と考えていました。

 その考えを深く学べるのが、認知言語学っぽかったんです。だから、認知言語学を学ぼうとしています。

 しかし、今回初めて「ビジュアルシンカー」という概念を知り、全ての人が言語を用いて思考しているわけではないことも知りました。それによって、少し私の「哲学的思考は言語能力に依存している」という仮説も修正せざるを得なくなったと思います。


 今回挙げた

言語思考者は「聴覚的情報」に意味を感じ、印象思考者は「視覚的情報」に意味を感じる

 という仮説に関しては、私はこの仮説が正しいのかどうかの検証をすることができません。しかし、私はあっているような気がします。
 上で話したように、動物はもっと他の五感を使って意思疎通しているのかもしれませんし、何より「五感」に収まらない可能性だってあります。人間は五感しか持っていないから五感が当たり前だと思っているのと同じです。
 そして、私が「言語思考をすることが当たり前」だと考えていたことと同じです。

 人間はおそらく、実際に経験したことしか基本的には考えられないのです。しかし、言語という音によって、論理的に、考えを説明する能力がある。だから、直接的な経験はできなくとも、間接的に経験する能力があるのです。
 残念ながら、動物は音による情報伝達はできても、言語という体系的なツールは持っていません(そう考えられているだけで、もしかしたら猿や鳥類は持っているのかも。イルカも結構頭いいですしね)。
 だから、直接的な経験以外は思考できないのかもしれません。


最後に

 私の兄が特にそうですが、本などの文章を読んで理解することが苦手です。
 しかし、彼は図を見て理解する能力や、図を用いて他者に説明することがとても得意です。それに、写真を撮るのも上手だし、空間把握能力に長けています。

 私は図を作るのが苦手だし、図をぱっと見で理解することも苦手です。図を用いて他者に説明するなど以っての他だし、最近はそうでもありませんが昔は地図が読めませんでした。言うまでもなく、方向音痴です。行きに見た景色と帰りに見る景色、向きが違うだけで別の場所かのように感じるのです。
 しかし、私は文章を読むのが好きですし、得意です。こうして文章を書くことだって、とても好きです。

 兄は絵や写真を見て、感情などの何かを感じることができるそうですが、私は文章を読んでその書き手の言いたいことや、気持ちを感じることができます。

 お互いに得意不得意があって、お互いに能力を発揮できる場所が違う。そう考えれば、現代の風潮である「言語化できない人は頭が悪い」というのが如何に馬鹿らしい考えなのかわかりますよね。ゆる言語学ラジオ内でも語られていましたが、

「会議中に発言しないならいる意味ないだろ!」というからには、その指摘をする人間は会議するときに絵を書いてわかりやすく自分の考えを主張できるんでしょうね!?笑


 私にとっての第一思考言語(?)は「言語」ですが、彼らにとっての第一思考言語は「印象」なのです。
 私の昔から持つ「認知は言語に依存する」という仮説は修正が必要ですが、しかし、言語思考者が論理的であるのに対し、印象思考者が感情的であるという傾向を考えるに、「認知は第一思考言語に依存する」という仮説ならそこまで的外れでもないような気がします。

(印象思考者が感情的だというのはあくまで私の感想であり、印象思考者の方々を非難する意図は一切ありません。そもそも、私は今は違いますが昔はかなり感情的な人間でしたからね…。それに、感情的になりやすいというのは兄から伝えられたことです。なんというか、考えをまとめるときに「イメージ」のなかに感情が含まれているらしく、その感情を感じ取ってしまうためにいきなり感情的になりやすいそうです。それは怒りとかもありますが、悲しいとか、呆れとか、そういう感情なのだそうです。私はそういう感情が前に来ることはほとんどないので、それを聞いたときにとても新鮮な気持ちになりました。)


 今回は、ゆる言語学ラジオ様の「ビジュアルシンカーの回」を見て私が感じたことを書きましたが、いかがだったでしょうか。
 このnoteのタイトルである「言語と思考の本質」というところはあまり具体的に考えられませんでしたが、しかしなんとなく掴めた気がします。まだ大学一年生なので研究するのは当分先ですが、しかし今のうちからたくさん考えたいと思います。

 あ、そう! 大学の図書館がすげーです。マジで、読みたい本だらけで興奮しました!笑 今は今井むつみ先生著の「言語の本質」を読んでいる途中なので、まだ図書館で本を借りていませんが、借りて読むのが本当に楽しみです。
 また本を読んで、そこから学んだことをnoteにしたりしようと思います。

 最後までお読みいただきありがとうございました。
  言哲


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