「伝える」ことの無謀性
この記事は、ジェイラボの活動の一環として書いたものである。
前回の書評活動において、3人1組のチームでサン=テグジュペリ『星の王子様』を読んだ。
同様に、岸圭介『学力は「ごめんなさい」にあらわれる』、森田邦久『理系人に役立つ科学哲学』を題材に書評活動を行ったチームたちと、合同でテーマを決めて記事を書く。
そのテーマとは「他者理解」である。
では、どのようにしてこの概念にアプローチするのか。
前回、僕は『星の王子様』の書評記事において、自分の人間関係における痛烈な失敗談を書いた。
記事を以下に貼っておく。
合同チームのミーティングでは、この失敗談が、他者理解という観点において一体どのような意味を持つのかについて軽く意見を交わした。ありがたい限りである。
その結果、他者理解という「言葉」に対して言語的な思考でアプローチしていくのではなく、僕の経験も踏まえ、他者理解という「体験」について自らの語れるところを書く、ということを今回のテーマに決定した。
せっかく僕の経験をテーマ決定のきっかけにして下さったことなので、僕は他者理解という体験に関して、またもこの失敗談について語りたいと思う。
前回の記事では、僕が置かれている状況なども含め、体験の「文脈」と言える部分を多く記述した。今回は、部活動の中で起きた失敗に関して、結局は何が問題だったと僕が考えているのかを書く。
極限まで抽象化すると、今回起きたのは、
何かを他者に伝えようとして、伝わらなかった
というだけのことである。
僕は、スキーの理論の全体像や、そこに向き合う態度、思考法などを後輩の講師たちに伝えようとした。だがそれは伝わらなかった。いや、理論をさらに細分化したブロックという意味での、「知識」の一部は伝わったのかもしれないが、僕が伝えたかったことは伝わらなかったと言っていい。
「理論の全体像」と言い続けても分からないと思うので、その概要を軽くだけ記述しようと思う。
スキーの理論に興味がない人は流し読みで構わない。思考の流れと、理解可能かだけに注意して読んでほしい。
スキー理論の概要説明
僕が伝えたかった理論とはつまり、スキーにおける「ターン」の原理と調和のとれた身体運動の方法論である。
スキー板を傾け、傾いた面に対し垂直に体重をかける。その結果、スキー板が撓んで形状を変え、雪面に弧状の「切れ込み」を作る。スキー板とスキーヤーの系はその「切れ込み」に沿って曲線運動する。これがターンの原理である。
この過程において、身体運動が関与するのは、「板を傾ける」「垂直に体重をかける」という2点である。
したがって、安全に滑走するにせよ、競技志向でスピードを出すにせよ、ターンをするのであれば、この2点を「どのように」実現していくのかだけが問題である。
板をどのように傾けるのか。スキー板とスキーブーツは固く接続されており、スキーブーツは脚の脛までをがっちりと覆っている。
よって「スキー板を傾ける」ことは、身体運動においては、「脛を傾ける」ことと同値である。
脛をどのように傾けるのか。ここで、人体の構造を深く理解していることが求められる。
人体の運動は、突き詰めれば骨格の運動である。
皮膚・筋肉・筋膜・臓器がどれだけ柔軟であろうと、骨の真ん中で身体がぽっきり折れ曲がることは、「事故」以外ではあり得ない。骨が(歯を除いては)人体の中で最も硬い組織だからである。よって、人体の運動を見るためには、まずは骨と骨の間、つまりは「関節」の運動を見なければならない。
こう考えることによって、「どのように脛を傾けるのか」という問いは、「いかなる関節運動で脛骨を傾けるのか」という問いに変わる。
下半身の関節で、最も自由度が高いのは股関節である。下肢では唯一の多軸関節であり、周辺に付着している筋肉も多い。
下肢を使って運動するのなら、最優先で動かすべきは股関節である。
では股関節のどのような運動を行えばいいのか。どのようなトレーニングをすればよいのか。
受講者にどのように教えればいいのか。…
これが、僕が伝えようとしたことの「流れ」である。
僕が思う、僕の体験における「問題点」
僕は、以上のことは、ちゃんと説明さえすれば、「伝わること」だと信じていた。
ここには書いていなくとも、すべての「なぜ?」に答えられるだけの用意が僕にはあったからである。
前提としているのは解剖学と簡単な力学であり、それを呑み込んでくれさえすれば、あとは論理的手続きによってドミノ倒し的に理解できる。そして解剖学と力学は、理系の学生なら正しいと呑み込んでくれるものに決まっている。我が大学は理系の単科大であり、しかも一応中堅以上のレベルの国立大だから、学生はみな最低限の論理的手続きは踏めるだろう。
これが、僕が以上のことを「伝えられる」と信じた理由である。
しかし結果的に伝わらなかったということは、そこに誤算があったということだ。一体どこか。
僕は、僕の話を聞く他者の「意欲」というものを軽視していた。
理解可能であることと、それを他者が「実際に」理解するということ、これらは同値ではないのだ。
何かを実際に理解するためには、大前提として、それを理解しようとする意欲が必要である。
現に、先の「理論」の概要説明を飛ばした人、理解できなかった人は多いのではないだろうか。
それは、僕の説明が不十分だったというのも当然あるだろうが、多くの読者にとって関係のない「スキーの理論」というものを、時間をとって理解しようという意欲がないという側面が大きいに違いない。
そのこと自体は僕もよく理解していたつもりだった。どんな人かもよく知らないOBに「上から」理屈で押さえつけられても、反発心を生み出すだけである。
僕は、部活動の内外において、彼ら講師たちとのコミュニケーションを欠かしたことはなかった。
合宿中は自分の練習時間を限りなく切り詰めて、教えを乞うてくれる後輩たちへの指導に時間を割いた。山小屋に帰ってからも、自分の滑走動画をチェックしてほしいという頼みを聞き入れ、可能な限り助言を与えた。
僕が主将を務めていた頃の後輩たちはもちろん、世代の被っていない後輩とも、砕けた会話を出来る程度の関係ではあった。
だから、僕の伝えたいことを汲み取ってくれる「意思」はあるのだろうと思い込んでいた。
ここに大きなギャップがあった。
単発の知識(情報)を伝え、受け入れるのは、信頼関係などなくても可能な試みである。
それはソーシャルメディアを見ていればよくわかる。真偽不明の情報を鵜呑みにし、拡散し、あろうことか特定の他者を袋叩きにするなどというのは、ネットの世界では日常茶飯事である。
しかし、ボリュームのある「情報の体系」を伝え、受け入れるというのは、生半可な信頼関係では到底不可能な試みである。
体系とは構造を持った情報の集積であり、それが抽象的であればあるほど、緻密であればあるほど、受け手の「意欲」が要求される。
しかも僕の理論は一般的な考えとは相容れないものだったのだから、尚更であろう。
時間をかけて理解したものが、結局は間違っていたなんて事態になるのは、誰にとっても避けたいことである。
だから、受け手にとっては、時間をかけて体系を「読み解く」前に保証が欲しい。
その保証が、他ならぬ、伝え手と受け手との信頼関係だということだ。
僕は、この信頼関係を見誤っていた。
日常のコミュニケーションが上手くいっているからと言って、相手のために時間を取っているからと言って、伝えたいことが伝わるとは限らない。
僕は、詰まるところ、伝えたい相手との自分との関係を見るということを、失念していたのである。
人に何かを伝えるということ
人に何かが「伝わる」とはどういうことか。
伝え手の思考が、声や文字、身振りなど、なんらかのコミュニケーションを通して、受け手の脳内に再現されるということである。
「伝える」とはどういうことか。
伝え手が、意図して「伝わる」を実現しようとすることである。
果たして、そんなことは可能なのだろうか。
受け手の脳内に情報が再現されるかどうかは、偶然の支配するところである。
もちろん情報を噛み砕いたり整理し直したり、受け手に「伝わりやすい」ようにデザインすることは可能であるし、その努力を伝え手が怠っていいというわけではない。
しかし、伝え手に出来るのは、伝わり「やすい」ようにすることだけである。「伝わりやすい」というのは、伝え手にとっての「伝わりやすいだろう」という思い込みにすぎない。
それが伝わるかどうかは、受け手の「能力」や、もっと根本的には意欲に依存するのだ。
人に何かを伝えるというのは、伝えようとするというのは、最初から無謀な行いである。
では、何も伝えようとしないのが正解なのか。
僕はそうは思わない。あの失敗を踏まえても、そうは思わない。
僕にできるのは、何かが他者に「伝わってほしい」と祈ることだけである。
そして、他者の、僕に対しての「祈り」を聞き逃さないよう努力し続けることだけである。