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荒井陶器工房①プロフ

🍵横浜のやきもの眞葛焼を愛し、その開祖である香山翁をお慕いするnoteにようこそお越し下さいました🎶

🍵今回は、2024年8月13日にお邪魔しました
荒井陶器工房の、荒井実さま
にお話を伺ってきました、そのご報告になります🐠🪸

🍵4時間強の密度の濃いお話でしたので、
記事を④本に分けてお届けしようと思います!!

荒井さんは、海が大好きでダイビングがご趣味🌊🌊🌊。
ウイスキーも嗜まれるとか。

23才で単身沖縄旅行に行き、読谷山焼金城明光窯(よみたんざんやき きんじょうめいこうかま)で、陶技の修行をされながら、沖縄の作陶技術だけでなく風土や精神をスポンジのようにたっぷりと吸収し、それら全てをこよなく愛していらっしゃいます。
行動派の陶工さんゆえ、何事も己の足で多くの地を踏み実体験し、資料文献を収集、日々の研究も怠ってはおられません。そこで得た確かな目利きで、古美術店に赴いては目に留まる古伊万里や古九谷に憧れてしまうそう。
今はご家族の都合により、ご実家の横浜市内の工房でシーサー制作販売など個人受注をされており、その傍ら、陶芸教室の講師もしていらっしゃいます。

とても溌剌とされていて、白い無地のTシャツがお似合いで、話しかたや身振りなどにも晴れやかな海を連想する明るいお方でした。


🚃伺ったお話から、荒井実さんの年表と物語をまとめました🥰

プロフィール


1971年 誕生。横浜市南区大岡で生まれ育つ。

1982年 小学5年生(11才)の時に、横浜市内のビルに入っていた陶芸教室に参加。人生で初めて陶芸に触れる。船の貯金箱を作った。

呉須で模様など描き込み、
後で割らずに小銭を回収できるよう、
下に穴を開けるなど工夫してある。
今も大切に保管している。

1985年 中学3年生(14才)の時に、向かいの家の2階で行われている絵画教室に通っていた。

1986年 高校1年生(15才)の時に、向かいの家の絵画教室の家主であり先生のWさんから、やきものの道具一式を譲り受けた。その時にもらい受け、挑戦したのは半磁土。半磁土はコシがなく成形が困難で、ヒモ作りに向いていなかったため焼き上がった作品にはことごとくヒビが入っていた。

「今の知識と経験があれば、ヒモ作りでもその後ロクロで整えればなんとかなるってわかるけど、子どもの時分じゃそれも難しかったよね。今回は骨壺を依頼されて、その原材料として子供の時ぶりくらいに半磁土に触るけど、大物の一個挽きは難しいねえ……」

荒井さん談

1988年 17才。静岡、カナダへの移住を経て、大岡に戻ってくる。

実家の姉の陶工房で遊ぶようになる。この姉の工房が、現在の荒井さんの作業場として受け継がれている。

1989年 18才。信楽の可塑性の高い粘土で、タタラ作りのコーヒーカップ等を器用に作れる少年時代だった。

1991年 20才。ランドマークタワーの建立に、施工測量の分野で、荒井さんは関わった。とてもお金を稼ぐことが出来たので、見聞を広げるため国内外の各地に旅行し、自分の新たな発見や体験を得ることに成功する。ランドマークタワーが70階くらいまで出来上がってきたところで退職。

1994年 23才。沖縄へ。

「沖縄行きの理由は、海が好きだったし、誰も知らない所に行きたい、そのことに尽きた。地元じゃ自分が幼い頃から、街の人たちに顔が知られている。そりゃ新しい場所に行っても自然と人間関係は出来ていくわけだけど、今度は丁度いい、大人としての距離感の関係が作れる。その事が当時の自分には必要だったんだよね」

荒井さん談

ミシェル・フーコーを例に挙げ、市場経済の流れは、大企業に操作されていること、世の中の流行りを追う画一的な人間が量産されている現代に、大きな疑問を抱いていたと、荒井さんは語った。

煩雑な情報を遮断するために沖縄へ。

沖縄にはテレビの民放が2局しかなく、あとはラジオと読書、新聞程度のメディアに限られる。この潔いほどの静けさが、荒井さんを癒した。

島の豊かな自然に包まれ、ヨット売りや雑貨屋などで働いたり、前職の経験を活かし測量の仕事をしたりして過ごしていた。

1999年 28才。沖縄のやきものを学び始める。

💡沖縄の陶修業において共に学んだ
千葉県出身の兄弟子は
京焼の方の眞葛焼、宮川香斎家で修業したそうです!
💡

「沖縄での修行時代、上達が遅くて、弟弟子にぐんぐん抜かれていった。自分がお猪口や茶碗を作っている間に、後から来た者が大皿をひいたりしていた。あまりに出来なくて、粘土づくりに降格させられた。しかし、この降格は、自分にとって結果よかった。粘土づくりのための土練機は、師匠のロクロの近くにあったので、師匠の陶技を間近で見て学ぶことができたからだ。すると、それまでずっと伸び悩んでいたロクロ挽きが、つかえが取れたように思い通り出来るようになったんだ。土取り量も感覚でおぼえ、今ではロットの100個や200個を正確に均一に作れるようになった」

荒井さん談

2000年 29才。ついに、沖縄でロクロ挽きを修得。

「ロクロを挽けるようになった時の喜びはひとしおだった。だが、それを上回る喜びが、釉薬を作れるようになったことだ」

荒井さん談(詳しくは後述)

2001年~
2018年 47才。沖縄出身の妻と子育てに奮闘。娘は地元大学を卒業。

2019年 48才。家族の都合により、大岡の実家に帰って来た。

2024年 53才。陶芸講師とシーサー陶作家を兼務。

💡シーサーは筒から作り、中を空洞の状態のまま成形、焼成するそうです💡
こっからシーサーが出来るなんて想像もできません…😯😮😯😮

一旦700℃で素焼きして、1230℃程度の本焼をするとか。

今も壺屋の組合から粘土を購入しているそうです。

「沖縄の家の門に坐る一対のシーサーのルーツは、石獅子と呼ばれる、琉球石灰岩で作られる巨大な石像の事だ。獅子の阿吽は密教による始まりと終わりを意味しており、更にさかのぼると古代オリエントの大帝国エジプトのスフィンクスまで行き着く」

シーサーの祖先がスフィンクスだなんてアツいですね!!

「似たもので言えば、唐獅子は中国、狛犬は朝鮮からきているんだよ」

荒井さんに、今一番望んでいることをお尋ねしました。

「今は蹴ロクロがほしい。蹴りのストロークでもって器が作れたら幸せだ」

それ、初めてお会いした、
永田の井上良斎の
登り窯流しそうめん会でも仰ってましたね…🤭🤭
よっぽど欲しいのですね…

参考資料:
荒井さんが修業した沖縄の窯元は
読谷山焼金城明光窯(よみたんざんやき きんじょうめいこうかま)

※住所は沖縄県読谷村字座喜味2653-1

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