会話とトラウマ
僕はもう少し他人に干渉してもいいのかな。
干渉、というと少し強い言葉かも。
触れても。側に寄っても。一歩だけ近くに寄っても。距離を縮めても。
その干渉方法は、会話。人と話すこと。
程度は様々、私は人と距離を置きすぎている事が多々ある。
何も考えずに話すと、勢いがつき過ぎて一方的になってしまう。そのくせ、自分の中身を具体的に話せない。自分のことは大したことないと思ってるから。
誰かと会話している時、自分の言葉がダメでないか、言う前に考えてしまう。話した後も反省する。
というのも、私の言葉は、無意識に強調気味で、断定的で、言い換えれば鋭いナイフのような言葉になってしまう、なることが怖い。
自分の考えが真っ直ぐきちんと伝わるように、と思っていたら、ネガティブな方向に強くなってしまった。
一時期は自分の言葉が怖すぎて、自分から話す事を控えてた。
だから、口調はなるべく柔らかく、少し間延びし、ゆっくりめにして、出力する言葉の緩衝材にする。
まだ、文章は少し怖い。自分の事だったら、その気分に合う口調にすればいい。
でも、誰かに伝える言葉は、文字は、自分が思っている以上に鋭さを帯びる。
どうなんだろう、こうやって出力しながらも、読んだ方が不快になったら申し訳ないといつも頭によぎる。
自分はずっと会話が苦手だと思っていた。
うまく話せない自分が嫌。色んな言葉を調べて覚えても、適切な言葉が出てこない。近くても異なるニュアンスで選んだ言葉は受け取られ方次第で伝わらない。
伝わらない。
そう思い詰めた時、さすがに滅入った。
まっくらやみでずっと「お前の言葉は伝わらない」と言われ続けた。思考も行動も制限された。思うこともやめていた。自分で鎖に繋がれてたようだった。トラウマだ。
そんな諸々を抱えながらも、強すぎる言葉の制御の兆しを見つけた。
『有り余る力を制御するために、さらに鍛錬して強化した。』
どっかの漫画のセリフだ。うろ覚えだけどこんな感じだった。
そんな、そんな制御方法があるのか。道筋がスーッと現れたようだった。
会話だったら、どうなるだろう。
単純だ。たくさん、たくさん会話する。
どんな会話でもいいと、自分に許可する。
最初は自分から話せなくても、相槌の文字数を増やす。YES/NOの単調の返事を減らす。
そして、自分の中身を軽んじない。
これが一番難しかった。上の行動は比較的早くできたのに、これだけは何年もかかった。
正直まだ自分語りは恥ずかしい。
相手のことを知るために、手っ取り早いのは自分のことをオープンにしておくこと。
会話の風通しをよくしておくこと。風が吹かなくても、開けておく。
誰かと話したい。もう少し距離を縮める方法が知りたい。欲深く言えば、君の心に触れたい。
私の心はずっとそう思っていたのに、無視していたのだ。言語化できてやっと向き合った。
心に浮かべることは素直にできるようになったけど、声に出すのはまだ言う前に迷ってしまう。
文字は、ネットの海に流すことは迷ったけど、今なら開けっぴろけてもいいかなって。
思考・文字と、声の差がまだあるなぁ。
表現できる幅が、双方でまだ乖離している。
狭めていきたい。
そうしたら、会話のいろんなバロメーターが見えてきた。
会話の量、文字量、情報量。声の強弱。感情の強弱。距離感の調整。専門用語と噛み砕いた言葉の程度。敬語と砕けた口調。
相手の知識量、認識範囲。興味の程度。感情。
まだ相手の観察は修行中だけど。
見えるものが、聞こえるものが増えた、というか今までも感じていたけれど、意識的に判るようになったというか...... まぁ、情報量がハッキリしたという感じに。
まだまだ練習中で、道半ば。
きっと一生考えて考えて、出力していかなければならないもの。
ナイフを使わない時は鞘にしまっておけ、って都会トムのおばあちゃんも言ってた。
会話中の頭のフル回転を、いつか軽やかにできるように。
1つ、また表現できた。