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無邪気な天使のような歌声と、過去にタイムスリップしたかのような懐かしさ:アルケミラ×リーガルリリー

らむは今日も走った。

彼は、午前中にやらなければいけないことを、ひととおり済ませ、昼頃に走る準備を始めた。彼は、デスク近くの窓越しから、今日の空模様がどんよりしていることを、起床時に確認していた。不思議なもので、天気が暗いと気持ちも多少なりとも左右されるものだ。

おまけに厳しい寒さが、彼の外に出る気持ちを削いだ。空調の効いている部屋から玄関につながる廊下へ出た瞬間、ひんやりした空気を感じられた。彼は少し憂鬱になりながら、両手に昨日飲んだ酒の缶を、左右それぞれの手で二缶ずつ、合計四個の空き缶を持って、外に出た。

当たり前なのだが、手がふさがっており、それでも玄関のドアを何とか開けようとするので、すんなり開けられず、空き缶を地面に落とした。カランカランという音がして、彼はとっさに誰かに目撃されていないか気になり、少しだけ赤面した。まだ走ってもいないのに、変な汗を少しかいた。

彼は、ゴミ捨て場に向かい、両手の空き缶を専用のネットに入れた。そんな趣味が決してあるわけではないが、ゴミを少し眺めることで、得られる情報が結構ある。まず間違いなく、彼が住んでいるマンションの住人達はお酒がそれなりに好きな人間が多いに違いない。

毎週、回収されるまでに必ずと言っていいほどに、空き缶専用のネットは、満杯になる。ビール、ハイボール、チューハイなど、色とりどりの缶が積み重なる。

また、別日の回収になるが、瓶専用のボックスには、ワイン、日本酒、焼酎、ウイスキー(彼の好きなラム酒はまだ見たことがない)などのビンが徐々に溜まり始めていた。こちらも回収前には、ボックス内で不意に倒れ、割れてしまう心配をしなくてもいい程に、びっしりと敷き詰められる。

どの銘柄の人気が高いのか、どの種類の酒が多く飲まれているのか、季節やイベント時によって差異があるのかどうか、しっかり見ればわかってくるやもしれない。まあ、そんなことはどうでも良くて、彼と同じく、結構な頻度でお酒を楽しんでいる仲間がいることにちょっとした連帯を感じられ、なんだかクスッとさせられて、彼の気持ちを少し明るくした。

彼はスタート地点の海までは、いつも歩いて向かうのだが、最近は歩いてなどいられない。少しでも体を早く温めようと、彼は海の見え始めるスタート地点まで走り出した。そんな彼の思惑を感じ取ったのか、信号が点滅を始める。車が曲がってこないことを確認しながら、彼は、信号の思い通りにはならないように、ペースを上げて、駆け抜けた。信号にあそび心でも宿ったんちゃうか!などと、彼はひとりでにツッコミを心の中でかまして、またクスリと笑った。大丈夫。誰も見ていない。

そのままスタート地点に着いて、間髪入れずに、ナイキのランニングアプリを起動、位置情報の反映がされているのを確認。彼はスタートボタンを押してすぐに走り始めた。それほどに止まっていると辛くなるような冷たさだったのだ。

厚着をしていれば、それなりには耐えられるだろうが、なんせ走るのだから、走りやすいように軽いウインドブレーカー程度のウェアしか身に纏っていない。こればっかりは、温まるまで辛抱するしかない。

空は、外出前に確認した通り、どんよりした曇り模様だったが、海に繰り出すと、また違った顔を見せていた。彼は走りながらひらけた景色を眺めた。今日も今日だけの空と海がそこにはあり、彼は存分に味わった。自宅で感じた憂鬱なんてものは、すでに忘れ去っていた。

立体感が全く感じられない、密度が高く、分厚くて、暗い灰色の雲が、彼の真上を覆っている。一方で、海の彼方は淡い青空がひろがりを見せている。そこには、陰影のはっきりした、わたあめのような雲が優雅に浮いている。

空がそんなコントラストの対比を見せる中、海はじつに穏やかであった。色は黒に近い濃紺、水面はまるでゆっくりと力を溜めるかのように、少しづつ形を整えていく。やがてそれは波となり、いつもより長時間、形状を維持しているように感じられた。

聴いている曲と曲の合間にあるわずかな空白。幕間のような時間に、波の音をイヤホン越しでも少し感じられた。波の音もいつもより低い倍速、0.7~0.8倍で聴いているような聴き心地だ。まるで世界がスローモーションで動いているような錯覚を少しだけだが、確かにおぼえた。

いつもとは世界が異なって感じられる、そんないくらかうっとりするような感覚に浸り、ぼんやりと思考をめぐらせ、走っている最中、

リーガルリリーの「アルケミラ」が流れた。

アニメ「86-エイティシックス-」で流れていた一曲である。非常にこのアニメの世界観とマッチしていて、この曲を聴いて、当時この作品を見ていた頃を彼は思い出した。

「86-エイティシックス-」には見所が沢山あるのだが、彼は、立場の違う人間同士が、対立したり、分かり合えないことへの葛藤、それを乗り越えていく描写に非常に心を打たれていた。相互理解の重要さを痛いほどに感じられるシーンがいくつもあった。

このアニメを見ていた時、彼は医療系メーカーの会社で経営企画の部署にいた。新会社設立のプロジェクトに参画して、主に社内広報を担当していた。新会社設立に際して、社内の様々なシステムを刷新するが、スケジュール通りに行かず、トラブルが頻出していた。

経営陣や本部はこれでもかというほどに混乱を解決するために、あれやこれやと奔走しているが、混乱はなかなか収まらない。その混乱の矛先は、現場の営業に向けられて、最も大打撃を受けていた。製品がスケジュール通りに発送できない、納品ができない、契約不履行になりかねない案件が多数発生した。営業にまつわる多くのシステム、ツールが上手く機能しなくなってしまい、その状況がなかなか改善できていなかったため、鬱憤が相当に蓄積されていた。

彼は社内広報を主に担当していたため、経営陣や本部の考えている、最大限できうる限りの、混乱を鎮めるためのマイルストーンを現場へ正確に伝える必要があった。しかし、ストレートに伝えるようでは、苦しんで、炎上している現場には油を注ぐようなものだ。合わせて、その現場の深刻な状況を経営陣や本部へ、優先して火消しすべきものを吟味して伝えるのも彼の仕事だった。

まるで板挟み。だけど、それが彼の仕事。どうしたらベストな橋渡しをすることができるのか。考えて、もがいて、様々な施策を練ってチャレンジをしてみた。できることはそれなりにやった。その中でも相互の気持ちがわかる自分だけは、その立場を大切にして、伝え方やタイミング、表現の仕方に、可能な限り、留意した。「86-エイティシックス-」のアンダーテイカー率いるスピアヘッド戦隊が、徐々に指揮官のレーナと相互理解を深めていく姿に励まされながら。

「アルケミラ」の澄んだ美しい声色は、まるで無邪気な天使が歌っているような雰囲気がある。また、全体を通して、過去にタイムスリップしたかのような、懐かしさを感じられる。歌詞と合わせて、人それぞれの経験に応じて、様々なことを連想させる気がする。「86-エイティシックス-」の様々な描写を想起させられて、今日の空、海が生み出す異世界のような景色と相まり、彼に昔の記憶を彩りながら、頭の中で描く助けをしてくれた。この時間は走った感覚があまり思い出せない、いつの間にかゴールにまた一つ近づいていた。そんな気にさせる不思議なひと時だった。

「アルケミラ」は、これからも彼にとって、その当時、苦しみながらも可能な限り向き合った記憶を呼び覚まして、力を与えてくれる、大切な一曲として残り続けるだろう。








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