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怒りではなく悲しみを伝えることにした。:すずめ feat.十明×RADWIMPS

らむです。今日は少し疲れが溜まっているような気がしたので、ゆったり軽めに走りました。天気はとても良くて、身体が程よい感じに温まり、ほぐれて、良いリカバリーランニングになった気がします。

走った後、海に佇むベンチへ。
少しだけ腰をかけて、静かな時間を味わいました。

昨日に引き続き、今日も好きな音楽の紹介へ。RADWIMPSさんが作曲を手がけ、十明さんが歌う「すずめ feat.十明」について、自分の観点なども織り交ぜ、綴っていきます。

アニメ映画、すずめの戸締まりの主題歌の一つとして流れていた曲です。リアルな災害を連想させるストーリーや、鈴芽と草太が全国を駆け回る冒険感、育て親と子の軋轢、ダイジンのお茶目さやイスとの取っ組み合いなど、、、シリアスさだけでなくユーモアさも含まれていて、本当に色々なことを考えさせられる、感動した映画だったのを記憶しています。この曲を聴くだけで、すずめの戸締りの色んなシーンが蘇ってきます。

すずめ feat.十明は、壮大で厳かに感じられる曲調、十明さんの美しい歌声が相まって、とても洗練された、何か澄み渡った気持ちにさせてくれる。そんな曲と捉えています。最初の「ル」だけで歌われる箇所から、何か扉を開いて、別の世界に入り込んだ気持ちにもなります。ノイズキャンセリングのイヤホンで聴くと、さらに没入感が増します。

今日のランニングでも、この曲を聴いて走りました。まるで周囲の時間がスローに流れるような感覚になり、自分が呼吸していることを再認識させられ、目の前の穏やかな海がいつにも増して美しく見える。そんな体験ができた気がします。

また、この曲を聴くと、私は「心」、「気持ち」「感情」など、そう言ったワードがイメージとして浮かび上がってきます。


「心」は常に私と共に在るもの。それは「感情」や「気持ち」を生み出し、感情の溢れを起こしたり、気持ちの波を立てる。

特に「怒り」は、感情の過剰な溢れや激しい荒波を生み出す。
この感情とこれまで沢山付き合ってきた。付き合い方として、正しいかは学術的に定かでないが、私は悲しみに変えることで、やり過ごしてきた。悲しみに変えることが「私の」心にはしっくりきていた。

最初の大きな怒りを感じたのは、小学校低学年の時だったと思う。

小学生の時、私の学校はお昼に給食が出ていた。兄弟が多く母子家庭だった私にとって、様々な献立が毎日変わってご飯が出てくるのは、とても気分が高揚する、ワクワクする時間だった。
朝も晩も働いて、ご飯を出してくれていた、母には十分に感謝している。感謝してもしきれない。贅沢なことを言っているのは重々承知しているが、半額のアジフライやコロッケの惣菜、鳥の胸肉で作った鍋、フライパンで作る大きなお好み焼き、それらを兄弟で分けて食べる。そのパターンが固定されていたので、やっぱり給食は新鮮さをもたらしてくれるイベントであった。

ただ、給食を好まない子達もいたように思う。美味しくない、ぬるい、牛乳は苦手など、様々な理由が各々にあったと察するが、その結果として、いつも多くの食べ残しが出ていた。
おかわりしても足りない、食いしん坊な私にとっては、ただただ「もったいないな」という気持ちが心の中で生まれていた。

この「もったいない」という気持ちのせいで、魔が差した。この食べ残しを持ち帰れば、家でも空腹を満たせるのではないか。家計が少しは楽になるんじゃないか、母が働く時間を減らすことができるのではないか。

当時は悪いことだという考えはなかったのだと思う。捨てられるものに手を出すだけ。先生だって言っているじゃないか、「残さず食べましょう」って。家族の助けになる。むしろ良いことをしているんだ、そんな気持ちがあった。

とはいえ、誰かに見られてはいけないことであるという認識はあった。だから、まずは観察した。給食の時間が終わって、配膳室へ食べ残しや食器が給食係によって運ばれていく。私のクラスがある階の全クラスが、食べ残しや食器を返却、その後、給食センターの人がどのくらいで来るのか、ことをおこすベストタイミングがいつなのか。

わずかな隙間であるが、誰もいない時間が存在することが分かった。下見をして、準備を整えたある日のこと。私は配膳室に入り、素早く牛乳をいくつかランドセルに放り入れた。すぐさま出て、走ってトイレに駆け込んだ。心臓がバクバクしていた。何とか上手くいったと思った。

でも、やっぱりいけないことが上手くいくなんてことはなかった。
私がランドセルを、昼休みなのに持ち歩いている。そんな不自然極まりない動きを、クラスの生徒二人が見ていた。

放課後に近づくにつれ、私の安堵感は増してきた。このまま家に帰ることができる。もう少しで牛乳を持ち帰ることができる。

帰りの会が終わって、下校のタイミングになった。私は一人でそそくさと上履きを外履きに履き替えて、校門を出た。
しばらくしたところで、後ろから「おいっ!」という声が聞こえて、私は二人の生徒にランドセルを掴まれた。安堵していた矢先、心臓が破裂しそうだった。

振り切ろうとしたが、二人相手にはどうしようもない。
私は諦めて、そのまま棒立ちになり、二人の生徒の思いのままにさせた。
ランドセルを勝手に開けられて、牛乳を取り出された。どんな言葉を投げかけられたのか、詳細に覚えていないが、「びんぼう」や「おかあさんだけ」など、小学生のレベルではあるが、言葉のナイフが私を突き刺した。

牛乳を取り返そうと、二人の生徒を追いかけるが、なかなか捕まらない。ランドセルがパカパカ開くことが気になって、上手く走れない。そのうち二人は私を中心に挟んで、牛乳でキャッチボールをした。取れるものなら取ってみろといった態度で。無邪気に楽しそうにしながら。私のもったいないという気持ちは、牛乳が粗末に扱われる怒りに変わっていた。また、自分が弄ばれていることがさらに憤りを感じさせた。

二人の生徒のうちの一人に私は掴みかかった。掴みかかったと同時に、バランスを崩した生徒は、取られまいと思ったのか、牛乳を高く上に投げた。橙色の牛乳パックは、緩くない急な放物線を描いた後、鈍い音を立てて灰色のアスファルトに叩きつけられた。ゆっくりと白い液体がアスファルトに流れて、やがて歩道の白線と同化した。

私が黙り、何をしでかすかわからない雰囲気を出していたためか、「ごめん」とぽつりと一人の生徒が言って、二人は駆け出して行った。
私は崩れた牛乳のパックを手に取った。こんなところに学校の給食の牛乳パックがあるのは変なこと。学校の先生に習った方法で牛乳パックを畳んでランドセルに隠し入れた。アスファルトに流れた牛乳は足でならすように事の顛末を隠そうとしたが、白色の痕跡を消せなかったから諦めた。

家に帰って、兄弟は外に遊びに出ていたが、私はあえて家で一人きりになった。思い出すと、怒りがどうしても込み上げてきて、毛布を強く噛みしめていた。ただ段々、心の移り変わりを感じられた。

「どうしてこんなことをするんだ」
「ひどい、わからない」
「でも自分がいけないことをしたから、、、」
「こんなことになった」

怒りから大きな悲しみに変わって、私は沢山泣いた。誰も家にはいないけど、声を出したら何か気づかれてしまうと思ったから、怒りではなく、悲しみの感情で毛布を再び噛み締めて、声を押し殺して泣いた。
少しずつであるが、悲しくて泣くことによって、心が軽くなっていくのを感じた。泣き止む頃には、スッキリした気持ちになって、私はいつの間にか眠りについていた。

私が怒りの感情に捕らわれた時、まず悲しむようになったのは、おそらくこの時からなのだろう。悲しみきることによって、かえって、心の重荷が解け、頭がクリアになったり、冷静さを取り戻すことができる気がする。

誰のせいでもない、変えようのない、行き場のない怒りに対しては、静かに悲しんで、心に安寧を取り戻す。また、人に対して怒りを覚えた時は、なるべく怒るのではなく、悲しい気持ちと、その理由を静かに心を込めて伝えるようにしている。

伝える人の中には、「なよっとしている」「気持ちが悪い」「変なリアクション」といった反応をされることもある。一方で「ごめんね」「そんな気持ちにさせるつもりではなかった」「以後、改めるよ」といった反応を返してくれる人もいる。怒る時よりも、心を通わせることができる人が少し増えた気がする。

少し歪なコミュニケーションかもしれないが、あの日から後悔が比較的少ない、私の心との付き合い方として、「怒りではなく悲しみを伝える」は染み付いている。


すずめ feat.十明は、どこか心のあり方を考えさせられ、澄み渡った気持ちにさせてくれる、私にとって出会ってよかった、大切な一曲です。

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