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第一章 価値と適合性 8 状況における適合形式

今度は逆に状況の側から物事の適合性を考えてみよう。状況は、物事の集合そのものではなく、それ以上のものであることは確かである。しかし、状況も、物事以外のものから構成されているわけでもあるまい。すると、状況がある物事と適合するとき、状況の一部となっているいくつかの物事がその物事と適合している、ということになる。この状況の一部となっている物事を〈背景事象〉と呼ぼう。

これは、その状況の一部となっている物事そのものではなく、まさにその状況の一部となっているがゆえに、その物事そのもの以下のものであり、その物事そのもの以上のものである。その物事以下のものである、というのは、他の〈背景事象〉との関係において、その物事そのものが持っている〈可能意味〉の一部しか〈機能意味〉にはならないからであり、また、その物事以上のものである、というのは、他の〈背景事象〉との関係において、その物事そのものにはないような相乗的な〈機能意味〉を持っているからである。このような、状況内のどの物事も持っていないが、状況においてそれらの物事に派生してくる〈意味〉は、状況そのものが持っている〈意味〉である9。

さて、状況への適合性が問われている物事と、〈背景事象〉との関係を考えてみよう。この適合形式には、二つのものがある。すなわち、ひとつは「代替」であり、もうひとつは「添加」である。

「代替」は、新しい物事と適合する状況の側の〈背景事象〉が消滅する、ないし、滅却されることによってのみ、新たな物事が状況に適合し構成される場合である。したがって、正しくは、〈背景事象〉が消滅する、ないし、滅却されるという事象そのものが、その新たな物事との適合関係にあって、その〈背景事象〉そのものは、むしろその新たな物事とは拮抗しており、だからこそ、新状況の形成にあたって消滅しなければならない、ないし、滅却されなければならない。とはいえ、新たな物事は、まさにその〈背景事象〉の消滅ないし滅却にこそ適合性があるのだから、もとからその新たな物事と拮抗する〈背景事象〉が存在成立していないならば、その新たな物事もその状況とは適合性を持っていないことになる10。

では、「添加」とはどのようなものか。これは、〈背景事象〉が存在成立していればこそ、新たな物事が適合し構成される、という場合であり、さらに、その新たな物事が適合しているためには、その〈背景事象〉が存続していなければならないものと、その新たな物事が導入されるときにのみ、その〈背景事象〉が成立していればよく、その後にその〈背景事象〉が消滅してしまってもかまわないものとに分けることができる。前者を〈基調的背景事象〉、後者を〈導入的背景事象〉と呼ぶことにしよう。もちろん、〈導入的背景事象〉は、その後も存続していてもかまわない。しかし、〈基調的背景事象〉の場合は、その存続が必要条件になっている11。

また、〈添加的背景事象〉において〈基調的背景事象〉と〈導入的背景事象〉を区別するならば、〈代替的背景事象〉は、むしろ〈導入的背景事象〉の一種であるかのように思われるかもしれない。つまり、新たな物事の導入にあたって〈代替的背景事象〉が存在成立していることが必要だからである。しかし、〈導入的背景事象〉は、その後、消滅してもかまわないのと同様に、存続してもかまわないのに対して、〈代替的背景事象〉は、絶対的に消滅しなければならない。この意味で、両者はやはり区別しておかなければならない。

また、代替的にしろ、基調的にしろ、導入的にしろ、これらは、ネガティヴに必要条件であることもある。たとえば、ある土地に建物がないことが、その土地に建物を建築する代替的必要条件であり、警備が来ないことが銀行強盗の基調的必要条件であり、部屋が埋まっていないことがホテルの宿泊受付の導入的必要条件である。ネガティヴな〈背景事象〉は、そのものとしては「物事」と呼ぶには足らないものであるのがふつうである。それは、物事というより、まさに全体的状況なのであり、なにか新たな物事を導入しようとすることによって初めて、その状況から〈背景事象〉として際立たせられてくる12。

9 たとえば、ヴァイオリンやビオラやチェロなどのそれぞれは、基本的には単音でしかないが、カルテットになると、そこにハーモニーが生じてくる。ヴァイオリンそのものがハーモニーの「可能性」を含んでいる、というのは、「可能性」の意味を拡大しすぎている。したがって、ハーモニーは、そのいずれの楽器も持たないが、それらの楽器が競演される状況そのものが持つ〈意味〉である、ということになる。

10 たとえば、窓が開いていることは、窓を閉めることの〈代替的背景事象〉であり、窓が閉まっていることは、窓を開けることの〈代替的背景事象〉である。このようなものは、とくに「相互代替的」と言うことができるだろう。同様に、たとえば、睡眠と覚醒も〈相互代替的背景事象〉となる。また、買物をすることにとって、資金を持っていることは、〈一方代替的背景事象〉になっている。これが、一方的であるのは、買物を資金へ戻させることが例外的な代替だからである。しかし、たとえば、自動車を買うことにとって下取に出す自動車を持っていることは、ここで言うような〈代替的背景事象〉ではない。というのは、古い自動車がなくても、新しい自動車を買うことはできるからである。古い自動車は、新しい自動車にとって必要適合条件ではない。むしろ、免許や車庫などの〈添加的背景事象〉こそが問題である。

11 たとえば、自動車にとって、免許は〈基調的背景事象〉であり、免許があればこそ自動車を買うことにも意味があり、免許がなくなったら自動車を持っていることも意味がなくなってしまう。これに対して、たとえば、外国語の学習にとって、辞書は〈導入的背景事象〉であり、辞書があればこそ外国語の学習も可能であるが、しかし、ある程度になれば、辞書がなくても外国語の学習はできるようになる。もちろん、その後も辞書はあってもかまわないが、しかし、もはや外国語の学習の必要条件ではなくなってしまっている。

12 世界が不適合状況において提示されてくる、という問題については、ハィデッガー『存在と時間』第3章「世界の世界性」(とくに第16節「周辺世界の世界適合性」)を参照せよ。ただし、ハィデッガーがそこで論じているのは、個々の物事の不適合的存在ないし不適合的欠落の方に重点がある。しかし、いずれにしても、物事が適合的に構成されてしまっている〈生活世界〉において、それを構成する個々の物事も、その〈生活世界〉そのものの存在も、その世界構造の中に背景として埋没してしまっていて、我々は主題化することができない(日常的にはする必要もない)、という問題指摘は重要である。そして、この論文では、このように背景化しているものこそ主題であり、その背景に埋没して張り巡らされた根をたどろうとしている。


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