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第一章 価値と適合性 2 価値と意味

犬を飼っている人にとって犬小屋は〈価値〉がある、ということは、〈意味〉がある、と言い換えることもできる。では、〈価値〉と〈意味〉とは同義語であろうか。

しかし、たとえば、この道具の〈意味〉は、簡単にネジをしめることができるようにすることである、とは言うが、これを、そのまま、この道具の〈価値〉、と言うには多少の無理がある。というのは、もし、より簡単にネジをしめることができる道具があるならば、それは前者と〈意味〉は同じだが〈価値〉はより高い、と言えるからである。

このような例からすると、〈意味〉とは対象の機能の種類であり、〈価値〉とはその対象の機能の種類における機能の程度である、ということになる。言葉の〈意味〉などの場合、我々はそれを説明するために、その言葉を別の言葉で言い換えるが、このように言い換えられた別の言葉は、元の言葉の〈意味〉そのものなどではなく、元の言葉と同じ〈意味〉、同じ機能を持つ言葉である、と考えられる2。

では、よりよく機能を果たすものが〈価値〉が高いか、というと、かならずしもそうではない。たとえば、いたずら電話のようなものは、いやがらせという〈意味〉を持つが、いやがらせとしての機能をよりよく果たすいたずら電話ほど、〈価値〉は低い。というより、さらにむしろマイナスの〈価値〉を持つ。それでも、いやがらせをする側にとっては、いやがらせとしての機能をよりよく果たすいたずら電話ほど、〈価値〉は高い。前節で論じたように、機能を果たすことが〈価値〉であるとしても、その機能を果たす程度によって絶対的に〈価値〉が決まるのではなく、あくまで主体や状況によって相対的である。ただし、〈価値〉は主体や状況に対してどのように相対的であるか、という問題は、後に考察しよう3。

ところで、一つのものであっても、その機能は一つとはかぎらず、むしろ同じ一つのものが多面的な機能を同時的にないし選択的に果たすという方が一般的である。そして、一つのものは、多くの機能(〈意味〉)を持ち、その機能(〈意味〉)のそれぞれにおいてさまざまな〈価値〉を示している。たとえば、同じ一つの料理でも、味や栄養などの多くの機能を持ち、味に関する〈価値〉、栄養にする〈価値〉など、多様な〈意味〉におけるそれぞれの〈価値〉を考えることができる。

だが、たとえば、厚い本を枕にするというように、ある特定対象が特定主体・特定状況において、偶然的にある機能を果たすことがある。しかし、ではこの厚い本が枕という〈意味〉を持っていると言うべきだろうか。〈意味〉という以上は、その対象の恒常的な機能であり、その対象に固有のものである必要があるのではないだろうか。とすると、〈意味〉は、特定主体・特定状況における特定対象に関するものではなく、あくまで類型概念に関するものである、と考える方がよいだろう。というのは、類型概念は、特定主体・特定状況を想定することはできるにしても、偶然性の余地はないからである。つまり、特定対象は、その属する類型概念においてのみ〈意味〉を持つ。

一般に、一つの類型概念は、本質と呼ばれるような唯一の機能にのみ依存して存立しているのではなく、複数の機能の上に存立している。したがって、そのいずれかの機能を喪失しても、その類型概念までは消滅せず、複数の機能を乗り換えて存続することもできる。それは、ある船が寄港各地で部品を取り替え、乗員を乗せ換え、出発したときの部品も乗員もまったく残っていなくなってしまっていても、新たな部品や乗員とともに航海を続行することができるのと同じことだろう。

たとえば、フランス国王の王冠は、ある意味では、いまさら無意味であり無価値であるが、また、ある意味では、いまでも有価値である。これが無意味であるのは、もはやフランス国王などというものが存在せず、したがって、その王冠も、フランス国王の地位の象徴という機能を失ってしまっているからである。〈意味〉がないなら、その程度である〈価値〉も存在しえないのだが、しかし、フランス国王の地位の象徴という機能を失ってしまうということは、フランス国王の王冠という概念そのものがなくなってしまうということではない。フランス国王の王冠は、別の〈意味〉を獲得し、類型概念として存続しうる。

なぜなら、この類型概念に属する特定対象は、フランス国王の王冠という類型概念だけではなく、装飾品という類型概念にも属しており、また、しだいに歴史品という類型概念にも属するようになってきている。このために、この類型概念がフランス国王の地位の象徴という旧来の機能や〈意味〉を失ったとしても、その類型概念に属する特定対象が属する他の類型概念の機能や〈意味〉を借りて、この類型概念は装飾品性や歴史品性という新規の機能を得、再生され存続することができる。そして、旧来の〈意味〉において無意味であり無価値であるようになってしまったとしても、新規の〈意味〉で有意味であり有価値になることができる。このように、類型概念は、複数の〈意味〉を乗り換えて存続するばかりでなく、それに属する特定対象を介して新規の〈意味〉を得ることもできる。

また、たとえば、おいしい洋食とおいしい和食は、〈意味〉は異なるが、しかし、その味のおいしさという〈価値〉は同じである、というような例もある。この場合、〈価値〉は〈意味〉を超越している(〈意味〉の領域に制限されない)のだろうか。おそらく、そう考えるべきではあるまい。そうではなく、洋食と和食としては異なるものの、料理としては同じ〈意味〉であり、そして、料理という同じ〈意味〉においてこそ、料理の味という属性のおいしさという〈価値〉を比較することもできる、ということである。つまり、類型概念は、さらにより上位の類型概念に含まれていることがあり、ここにおいては、下位の類型概念は、上位の類型概念の〈意味〉を共有し、その共有された〈意味〉を介すれば、他の類型概念との比較も可能である。〈意味〉は類型概念に付随し、したがって、一つの物事は、それが重層的に所属する類型のそれぞれが持つ〈意味〉のすべてを持つことになる。

以上をまとめると、次のようになるだろう。ある特定対象は、ある類型概念に属しており、その類型概念はさまざまな固有の機能を持っている。そして、そのような類型概念の固有の機能の種類が、その特定対象や類型概念の〈意味〉であり、その機能を果たす程度として、それぞれの〈意味〉において〈価値〉がある。しかし、その機能を果たす程度は絶対的なものではなく、あくまで主体や状況に相対的である。また、類型概念の固有の機能も、長期的には変遷しうる。

2 中世スコラ哲学からデカルト・スピノザなどの近世哲学において、〈実体[substantia]〉〈属性[attributum]〉〈様態[modus]〉という概念が区別して用いられることが多かった。それぞれの定義は、さまざまな哲学者によって微妙に異なるが、〈属性〉は、〈実体〉の本質を構成する次元(ディメンジョン)であり、〈様態〉は、その〈属性〉のあり方を示すものである、と考えることもできるだろう。たとえば、赤い絵の具は、絵の具という実体としてその属性である色を持ち、その色の様態として赤である、ということになる。そして、この赤い絵の具は、厚さや性別などの属性は持たず、したがって、それらの属性における様態も問題にはならない。
 ここでは、このような諸概念を《機能論》的に再定義することによって、〈価値〉の問題の分析に利用しようとしている。つまり、物事の〈属性〉を〈意味〉として理解することによって、単なる実体の性質の種類としてだけではなく、他の物事への効果影響の種類として考え、これによって、〈属性〉ごとに評価次元と評価単位の異なる〈様態〉を〈価値〉として一元的に掌握できるようにしようとするものである。そして、このような物事の理解の仕方の方が、物理学的に対象を測定しようとするかのような〈属性〉や〈様態〉による理解の仕方よりも、我々の日常の態度に近いと思われる。我々は、直接の意味の異なるものでも、高次の意味において価値として比較し、選択することができる。〈価値〉の普遍一元性があればこそ、我々は家政学的生活経営行動を行うことができるのではないだろうか。

3 〈価値〉を〈意味〉の機能程度として絶対的に評価するのは不可能である。なぜなら、後述のように、ある物事が持つ〈可能意味〉のすべてが完全に〈機能意味〉へと展開するかどうかは、条件(主体・状況)によるからである。そして、〈機能意味〉の機能程度は、特定条件の中での効果によるのであり、まったく特定条件のない状態での機能程度を論じることは、宇宙空間での地上高度を論じるようなものであろう。
 ただし、たとえば、いたずら電話などの場合、かけられた方のマイナスの〈価値〉と、かけた方のプラスの〈価値〉が量的に同じである、というようなことを考えることもできるかもしれない。しかし、かけられた方はとても滅入っている状況であり、ひどいマイナスの〈価値〉を持つのに対し、かけた方は単なる気晴らしで大したプラスの〈価値〉も持たないということもある。このような同一の物事が異なる主体においてどのような〈価値〉の関係を持つかという問題は、向後の研究課題となるだろう。


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