第一章 価値と適合性 5 価値の主体性
〈価値〉は、量的なものではあるが、点的に確定されたものではなく、時間による変化、類型における多様性によって、茫漠としたまま〈価値空間〉に分布している。しかし、我々は、このように論理数学的に物事を考えているわけではないし、各瞬間において樹状に分岐していく可能な具体的条件のすべての時間順序列を枚挙的に想像することなど実際にはできはしない。
我々は、ある特定対象の〈可能価値〉を考えるとき、特定条件のおもな時間順序列を想像し、その時間順序列に対応するその物事の〈機能価値〉の時間順序列を考慮する。たとえば、大型犬の子犬タロウのためにある犬小屋を買う場合においては、タロウがしだいに大きくなっていくことを想像し、そのような歴史の中でのその犬小屋の〈機能的特象価値〉の変化を考慮する。はじめからタロウが子犬のうちに死んでしまうことを想像して小さな犬小屋しか買わないという人はいない。
ここにおいて重要なことは、タロウが子犬のうちに死んでしまうことはない、ということは、単なる予測ではなく、むしろ、まったくの希望である、ということであり、そして、特定条件の時間順序列は、自然のなりゆきのみに依存しているのではなく、むしろ、その〈価値〉の主体にこそ、おおいに依存している、ということである。つまり、まさに主体の希望のとおりになるように、主体は行動し、逆に言えば、主体が行動することこそが、主体が希望するということである。
たとえば、もし犬がフィラリアで死んでしまう可能性があるとしても、もしそれがわかっているならば、飼い主は犬に予防接種を受けさせるだろう。そのような可能性があるならば、主体はその可能性をなくすようにすることができる。そして、同様に、可能性があるならば、主体はその可能性を実現しようとすることができる。特定条件の可能性は、自然に選択されるのではなく、主体が選択する。
先に、理論的には、すべての可能な特定条件の時間順序列を想定し、それに対応する〈機能価値〉の時間順序列を考慮し、その集合として〈可能価値〉を定義する、としたが、しかし、実際は、主体の希望する可能な特定条件の時間順序列とそれに対応する〈機能的特象価値〉の時間順序列しか想定し考慮しないのであって、それがその特定対象のその意味における〈可能価値〉になっていて、それで充分である。というのは、主体が想定する特定条件の時間順序列こそ、その主体が希望して実現しようとするものであり、その他の条件に妨害されないかぎり、それこそが実現する特定条件の時間順序列そのものだからである。
もちろん、すべての特定条件を主体が希望するままに実現していくことができるというわけではない。そこには、物理的制約や社会的制約などがあり、選択の余地はあまりないこともある。しかし、このような場合は、特定条件の可能性も限定されているから、むしろ特定条件の可能な時間準序列も想定することができ、そこにおける特定対象の〈機能価値〉もより明白になる。それは、通常の意味では主体的なものではないかもしれないが、まさにその状況のなりゆきを予見しつつ行動しているという意味では、やはり主体化されている。
この意味で、一般に、〈可能価値〉は、主観的というより主体的なものである。つまり、その客体がそのような〈可能価値〉を持つ、ということではなく、主体が状況を介してその特定対象から予見している〈可能価値〉を引き出す、ということである。ある特定対象から、そのどのような〈意味〉を、どのような〈価値〉の程度で引き出すかは、主体が状況に従って決めるのであり、その状況も、主体によって決まる。そして、このことは、類型概念や類型条件に関しても同じように言えるだろう。このような意味で、〈価値〉は、きわめてある主体に相対的(依存的)なものである。
しかし、ある主体がどのような状況を作り出し、客体からどのような〈価値〉を引き出そうとしているか、は、主観的ではなく、やはり、客観的に決定できる。状況は主体の意図を反映して形成されていき、そして、その状況は、その中に他の主体も含まれるものとして客観的だからである。もちろん、主体が状況を誤解している場合や、状況そのものが客観的にも多義的である場合もある。しかし、このような場合も、誤解は誤解として状況に反映されていき、多義的な状況は主体によってそれこそ主体の希望する一義的なものへと収束させられていく。