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お遍路ウォーキング日記(232:七十七番道隆寺へ ②)

【2024年8月24日(土曜日) Day 232】

 昨日から殆ど先には進めてはいないがその間に市境を跨いで善通寺市から隣の多度津たどつ町に入った。多度津町は瀬戸内の小さな町だがここで鉄道の予讃線(松山方面)と土讃線(高知方面)が分岐をするため古くから鉄道の要所として栄えた町だ。

 かつての鉄道の影響力は絶大。鉄道が分岐する場所は昔から町の基盤もがっしりしている。中央線と青梅線が分かれる立川。東海道線と横須賀線が分かれる大船。東北線と高崎線が分かれる大宮、北陸線と東海道線が分かれる米原などなど、重要な町の基盤はかつては鉄道が関係していた。多度津もまたそんな鉄道分岐点らしい雰囲気を感じる。

 今日は昨日打った札所七十六番金倉寺について簡単に書こうと思う。

 このお寺はほかの札所と比べてもすこし毛並みが違い天台宗の寺院。天台寺門宗の開祖、智証大師(以後「円珍えんちん」と呼ぶ)の祖父、和気道善が建立した寺。道善は景行けいこう天皇の子孫でもあり、最初は寺号を「道善どうぜん寺」と名乗っていた。

 道善の孫の円珍は子どもの頃から頭角を現し、後光が見えたりと逸話も多く、五歳の時には天女が目の前に現れて三天光の一人で虚空蔵菩薩の生まれ変わりであると素性を告げる。そして仏門に入るのであれば一生守ると申し出た。

 この天女は鬼子母神(訶利帝かりてい)で、その加護を受けた円珍は後に唐へ渡り、道善寺に唐の青龍寺に倣って伽藍を建立させ、薬師如来像を祀った。また境内には円珍を守った鬼子母神のための訶利帝堂も作られた。

 10世紀には醍醐天皇の勅令で土地の金倉郷の名前を寺号にする。その後は度重なる兵火によって本尊と宝物以外は全て焼失してしまう。17世紀までは無住の寺となるも周辺の真言寺院の助けで真言宗の寺院として復興するも高松藩主松平頼重により天台宗として再興を果たす。

 明治の世に入ると乃木希典がこの寺に3年滞在し、その縁もあって遺品を展示する部屋がある。

 個人的には限られた敷地にある本堂が非常にダイナミックに配置されていて否応にもお寺らしさを感じてしまう。

 またこのお寺はペット禁制でわんこを連れて中には入れない。車で来た場合、夏場は車のエンジンを回しっぱなしにしなければならないが駐車場の係員さんが親切で事情を説明すると車を見てくださった事がある。

 寺伝を知ると天台宗の寺院だとわかるが、そうでなければ宗派など巡礼の前ではあまり気にすることもないなとつくづく思う。宗派は異なってもお寺の打ち方は全く同じだ。

 因みに次の天台宗のお寺は札所八十二番根来ねごろ寺、そして八十七番長尾寺もそうである■


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