私はまだまだ無知である
今、インドに来ている。
私が滞在しているゲストハウス近くには、鶏屋が2軒程あるのだけど、
今日初めて鶏が絞められる、というよりは、殴り殺される、という衝撃を目の当たりにした。
今、この言葉をこうして書きながらもショックが蘇ってくる。
12年前初めてインドに来た時、これに似た状況を見て、私はお肉全般食べれなくなった。
(数年間ベジタリアンだったけれど、今は魚も卵も食べる。食べれないのはお肉だけ。)
ベジタリアンになった最初の理由は、チキンにあたったからだった。
その後チキンカレーを食べようとしたら、その時の感覚が口の中に広がって、食べれなくなった。
その後、鶏さんがひしめき合うように檻に入れられ、その中から1羽ずつ引っ張り出されるところを見て、道路を人間と同じように歩く牛さんを見て、汚い泥水を浴びる豚さんを見て、
どうして私はこれらを食べていたんだろう?と思った。
同じ命。人間は人間を食べないのに、どうして?
こういう考えでお肉を食べれなくなったというと、肉好きの一定の人やベジタリアンが嫌いな人から「野菜は食べるんだよね?植物だって生きてるんだよ」と言われることがある。
言いたいことはわかる。否定はしない。
私もそういう意味合いで魚も食べれなくなった時期があった。
でも、肉や魚や野菜たちを何の意識もなく食べている人、調理している人に、それっぽいことを言われたくない。
私の知ってるベジタリアンの人たちは、肉や魚を食べる人を攻撃したりしないし、否定もしない。
ベジタリアンではなく肉や魚を食べる人も、意識して食べている人、命を頂いている人は否定せず受け入れてくれる。
だけど、ベジタリアンを否定する人は、ただ単に、攻撃したいだけに思う。自分と違う考えを受け入れず、排除しようとする。
一度、お店の店長から「ヴィーガンなんて死ねばいい」と言われたことがあった。
私が食べれるものが少なく、特別に何か用意してもらって、大変だったのもあるのだとは思う。
上のような、「なんで食べないの?」から話は進み、最終的に言い放たれた「ヴィーガンなんて死ねばいい」
私はヴィーガンではないけれど、ヴィーガンの友達だっている。
なぜそんなことを言われなきゃいけないのか、腹も立ったし悔しかったけど、そんな人間に私がわざわざ言葉を返す必要はないと思ったので終わりにした。
東日本大震災のボランティア活動を共にした仲間であったはずのその人との関係も、その場所との関係もその瞬間に終わった。
(ここから先、鶏屋の光景を書いているので、苦しい人は読まない方がいいかもしれません)
今日は、友達とふらっと買い物に出た帰り、鶏屋まで30mくらいでそれは起きた。
鶏の泣き叫ぶ声でそちらを見ると、両脚を掴まれた鶏が逆さで棍棒のようなもので殴られ、下にあった大きなボウルのようなものに入れられた。
そしてさらに檻から鶏を引っ張り出す。
仲間が目の前で殴り殺され、その手が次の瞬間自分へと伸びてくる。
想像できないほどの恐怖だろう。鶏が泣き叫ぶ声が、私にはハッキリと「嫌だ嫌だ!やめて!」という絶叫に聞こえた。
棒でたたくというのは初めてで、衝撃的だった。
何より鶏の声が居た堪れなかった。
足が前へ進まなくなり、私たちは後ろへ引き返した。
遠回りして帰ろうとしたけれど道がなく、少ししてから道の反対側を通ってその場を通り過ぎた。
これを書いている今も涙が出てきてしまう。
涙が止まらないまま宿へ戻るとスタッフが来たのでなんとか平常心に戻そうとした。
その状況を見た、という出来事はもう既に過去のものになっているというのに、今もそれを思い泣いているのはおかしなことだ。
そう思うと、人の心、自分の心、思考や記憶というものの造りの不思議を改めて感じた。
部屋に戻ってもう一度涙を出し切った後頭をよぎったのは、鶏さんのことではなく、その行為をしている彼のことだった。
彼がうむカルマがどれだけなのか。
インド人に生まれたということは、ほぼ生まれた時から仕事は決まっている。
インド人に生まれその仕事に就くという人生はそれもまたカルマなのだろうと思うと、彼は自分のダルマを全うしているだけかもしれない。
あの状況を見て胸が痛くて悲しくて苦しくて涙が止まらない私は、きっと無知なんだろう。
私たちは皆同じであり、この体が消えようともそこだけは消えることがない。
その命が終ろうとも、その本質は在り続けるのだ。
私はまだ何もわかっていない。
それが心底わかった出来事だった。
それについては悲しくない。
これは気付きだ。
神様はいつでもこうして気付きを与えてくださる。
教えをくださる。
この、とてつもなく苦しい出来事からも、学ばなければ。
自分の外側すべてから受け取り、自分の内側で学ぶ。
助けることも、その術も何も持たない私にできる唯一のこと。
【追記】
インドで見る鶏たちは、檻にひしめき合うように入れられ、中にいる鶏たちはもう生気がない。
ヨガの観点で考えると、その時点でもうプラーナは失われているように思う。
インドにいると、ベジタリアンメニューで全然いけるという人も多いくらい、メニューも味も豊富だから、インドにくる人は、インドにいる時だけでいいからベジメニューを選んでほしいと思う。
プラーナがなく彼らの恐怖や悲しみや苦しみを受け取るだけの食事より、プラーナ豊富なサトビックフードを選んでほしい。
それが自分も他者も幸せにする一つの方法だと思うから。
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