エッセイ 「最速の称号を賭けて」
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二輪ロードレースの最高峰の舞台は
WGP500ccクラス(現在のMoto GP)である。
中でも1983年は特筆すべき両雄のチャンピオン争いが白熱した伝説のシーズンとして語り草になっている。
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ケニー・ロバーツ (Kenny Roberts)
〜"王者"と呼ばれた男
欧州を主戦場にするWGPに参戦する以前、
彼はアメリカ国内で開催されるAMAグランドナショナル選手権のチャンピオンであった。
平地のダート路面を反時計方向に周回するオーバルコース
砂の上を疾走する高出力のオートバイでコーナリングすることで磨かれた技術は欧州生まれのロードレースに革新をもたらした。
彼がコーナーリングする際に、旋回方向に下半身をグッと沈み込ませ膝を擦りながら軽快に体重移動させるハングオン(ハングオフとも言う)スタイルでWGP初参戦にも関わらず"78シーズンの年間チャンピオンとなる。
その頃、彼は"78年・"79年・"80年にわたってヤマハ YZR500を駆り、その流れるように美しいライディング・フォームをもって、3年間もの間チャンピオンに君臨し続けるのであった。
人々は彼を王者と讃え
"キング"ケニーと呼ぶのであった。
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フレディ・スペンサー(Freddie Spencer)
〜若き天才ライダーの出現
フレディ・スペンサーの走法は、バンク角の変化によるマシンの向き変えが異様に鋭いと言われる。
旋回して車体を立て直す時間が極端に短く、コーナーの立ち上がりからトップスピードにいち早く到達させ、エンジンを高回転域にキープさせる走りであった。
コーナーリングにおいては周回毎に違うラインどりであったとも言われ、完成し切っていないところもあり、その底知れない才能に不世出の天才性を感じさせた。
この若き天才ライダーはアメリカ国内で走っていた時代には既に、第1周回から圧倒的なラップタイムで他を引き離す走りで知られており、“ファスト(速い)・フレディーと呼ばれた。
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1983年シーズンの開幕
ヤマハのYZR500はシリンダーが点火するまで時間が掛かることが弱点であった。
当時のレギュレーションである"押しがけスタート"では、始動性に優れるNS500を駆る後続のホンダ勢にスタート時で抜き去られることがしばしば見受けられた。
だが、ケニーのライディング技術は円熟の境地に達していた。
スタートの不利こそあれトップ・スピードに優れるYZR500を誰よりも上手く乗りこなし、毎レースで凄まじい追い上げを展開し、時には抜き去ってゆく姿に、観る者を魅了するのであった。
ヤマハYZR500を駆るケニー・ロバーツ
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一方のフレディの話に移る。
彼は前年度'82シーズンよりホンダ・ワークスからWGP500ccにフルエントリーしたフレディは着実に本領を発揮しはじめる。
ホンダは前年度より2ストローク3気筒のNS500を投入した。
主流であった4気筒エンジンにパワーこそ及ばないものの、低重心であり、コンパクトな設計で軽量化され、加えて始動性の良さがあるマシンであった。
フレディのライディングスタイルにマッチしたこともあり、シーズンの前半はフレディがレースの主導権を握りチャンピオンシップ争いで優位に立つことが出来た。
ホンダNS500を駆るフレディ・スペンサー
シーズン後半では、ケニーが神の領域とも言える圧倒的な速さを発揮し、フレディを抜き去っていき勝利を重ねていった。
チャンピオン争いは最終戦までもつれ込んだ。
結果としては全12戦中、フレディ6勝、ケニー6勝とこの2人のライダーのみで勝ち星を分け合う形で両雄が鎬を削り、息を呑む激闘を演じてみせたのであった。
そして、2ポイント差でフレディが最年少でのチャンピオンを掌中におさめる形となった。
今シーズン、心身共に充実していたケニーであったが、フレディにあと一歩及ばなかった。
ケニーにしてみれば__
来季以降、現在31歳のライダーがこれ以上の能力を発揮できるとは思えない。
だがフレディは若く才能に満ち溢れている。
この若武者を前に惨めな敗北を晒すことは、王者の誇りに賭けて許すことなど出来なかったのであろうか。
王者ケニーはこの'83シーズンを最後にWGPレースから引退することになった。
ヤマハ発動機 ホームページより抜粋
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当時、ランキング5位の日本人ライダーの片山敬済氏は当時を振り返る。
「たまに2人の間に割って入って勝負できたのは、僕とランディ(マモラ)くらいだったけど。」
「あの2人にはとてもかなわない。彼らは神の領域にあって、彼らに追いつこうとすると死んでしまうよ。」
のちに4度のワールド・チャンピオンになるエディ・ローソン(当時ランキング4位)はヤマハの同僚ケニー・ロバーツについて語る。
「ケニーとマシンが絶好調だと、もう誰もついていけないさ。」
「フレディがチャンピオンを取れたのは、NS500の始動性の良さだろう。」
実際には押しがけスタートで、フレディのNS500は3歩目で点火したのに対して、ケニーのYZR500はエンジン点火まで17歩かかっていた。
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後日譚
その翌年__
フレディは1984年は精彩を欠きシーズンランキング4位に甘んじる。
彼にとって挑むべき相手はもう誰も居なかったのだ。
ケニーと言う絶対的なライバルを失い、レースに挑むモチベーションを保つ目標を見出さなければならなかった。
翌1985年シーズン
フレディは500ccと250ccにダブル・エントリーをする。
人々はフレディが狂気じみていると感じたに違いない。
それは誰も到達し得ない領域に踏み込むことで、彼なりのレースに対する情熱を高める意味で必要な目標だったのだ。
1985年はまさにフレディの才能が全開したシーズンであった。
彼は精力的に両クラスのレースに参戦し、各クラスでそれぞれ7勝づつを達成し、最終戦を待たすして500cc、250cc両クラスのチャンピオンとなり、ダブル・タイトルを掌中にするのだった。
あっさりと目標達成したフレディは、これ以降WGPで勝利をすることは二度となかった。
ケニー・ロバーツがレースから去っていなければ、フレディのその後も、また違う歴史を辿っていたのかも知れない。
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長文お読みいただきありがとうございます。
当時、彼らは永遠のヒーローでありました。