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エッセイ 「サトリ」

深山であるキコリが斧をふるって大木を伐っていたとき、
いつのまに来たのか、サトリという異獣が背後でそれをみている。

「何者ぞ」ときくと、

「サトリというけものに候」という。

あまりの珍しさにキコリはふと生け捕ってやろうと思ったとき、
サトリは赤い口をあけて笑い、
「そのほう、今わしを生け捕ろうと思ったであろう」と言い当てた。

キコリは驚き、このけもの容易に生け捕れぬ、斧で打ち殺してやろうと心中たくらむと、

すかさずサトリは
「そのほう、斧でわしを打ち殺そうと思うたであろう」といった。

キコリはばかばかしくなり、
(思うことをこうも言い当てられては詮もない。相手にならずに木を伐っていよう)
と斧をとりなおすと、

「そのほう、いま、もはや致し方なし、木を伐っていようと思うたであろう」
とあざわらったが、キコリはもはや相手にならずどんどん木を伐っていた。

そのうち、はずみで斧の頭が柄からぬけ、斧は無心に飛んで、異獣の頭にあたった。

頭は無惨にくだけ、異獣は二言と発せずに死んだという___

司馬遼太郎
" 竜馬がゆく " より

私はこの寓話を織り交ぜた
司馬遼太郎先生の筆致が大好きでした。

" 竜馬がゆく " の本編では
剣の術理に喩えておられます。

剣術でいう無想剣の極意はそこにある。
この寓話は、おそらく創作上手の
禅僧がつくった話だろうが、
神田お玉が池の千葉周作は
この話しが好きで、
門弟に目録や皆伝を与えるときは、
必ず、「剣には心妙剣と無想剣がある」といった。

周作はいう。
「心妙剣とはなにか___」

別名を実妙剣といい、
自分が相手に加えようとする狙いが
ことごとくはずれぬ達人のことで、
剣もここまでいけば
巧者というべきである。

しかしこの剣も、サトリの異獣のように
それ以上の使い手が来れば破れてしまう。
無想剣とは、「斧の頭」なのだ。
斧の頭には心がない。
ただひたすらに無念無想で動く。
異獣サトリは心妙剣というべきであり、
無想剣は斧の頭なのだ。
剣の最高の境地であり、
ここまで達すれば百戦百勝が可能である、
と千葉周作はいうのである。

司馬遼太郎 " 竜馬がゆく" より

重太郎と龍馬は太刀切り三十本勝負を行う。

最初と最後を豪快な突きで龍馬がとった。

しかし二十八回はとられてしまった。

 誰が見ても龍馬の突き技は誰も見たことがないほどに見事であった。

なかの二十八回は他愛もなく打たれた。

しかし、二十八度も形を変え、動きを変え、姿を変えて勝ちを自然に譲るなどはなみなみの腕ではできない。

龍馬はここで白黒をハッキリすることを損だと思っている。

つまり誰も得をしないのである。
あえて白黒をつければ遺恨が残る。

剣の極意は結局は剣を抜かず、人を斬ることなく済ませること。

「剣を抜かずに済むものならば、抜かぬが良い」

「争わずに済むものなれば、争いは裂けよ、争わずが極意」

司馬遼太郎 " 竜馬がゆく" より

これは剣の術理に喩えておられますが
現代を生きる世間一般のわたしたちの
心の有り様に大きなヒントを与えてくれて
いる言葉なのではないかと思えます。

SNSが身近なものとなり、より便利であるが
反面により情報が多様化し、身近な分だけ
心が揺れることも多いです。

目に見えない、心が蝕まれることが
増えているな、と思うのは
スマホやインターネットの便利さの
代償なのかも知れませんが、

良い情報を選びとり、
危うい情報には近づかない
物事の本質を捉えつつ
心の平静さを保っていきたいですね。

あらためて読み直してみたい
思い出に残る一冊です。

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