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戦争と香港~旧日本軍の足跡をたどる~壽臣山「リトルホンコン」編
香港島南部のリゾート地、浅水湾(レパルスベイ)に近い山間部の壽臣山(ショウソン・ヒル)に、「Little Hong Kong(リトルホンコン、小香港)」と呼ばれる場所がある。英軍が秘密裏に建設し、1937年に完成した最大の中央弾薬庫跡だ。
もともと香港島中心部の中環(セントラル)に設けていたが、旧日本軍によるアジア進出拡大で戦局が迫ると、セントラルからリトルホンコンに移転した。セントラルの旧弾薬庫はその後、普通の倉庫として使われたという。
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41年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発し、香港島まで攻め入った旧日本軍との戦いでは、同25日の英軍の正式降伏後も、英軍兵士の抵抗が続いた場所として知られる。通信網が絶たれ、情報が伝わらなかっためだ。「最後の戦い」でリトルホンコンを守っていたのは、英国籍、カナダ籍、インド籍の各部隊、香港防衛軍による混成部隊で、英国植民地・香港での編制としては、非常に象徴的だった。
27日、日章旗がセントラル中心部ではためく中、日本人妻を持ち、日本語の分かる香港海軍ボランティア部隊(HKRNVR)に所属するルイス・ブッシュ氏がリトルホンコンに送られた。降伏を拒否する兵士らを英雄扱いすることで、ようやくアバディーンまで連れ出すことができたという。
そもそも、リトルホンコンという可愛い名称は、カモフラージュ説が有力だ。観光地の「香港仔(アバディーン)」と近く、仮に名称が外部に漏れても、アバディーンの広東語読み「香港(ヒョンゴン)」+「仔(ジャイ=子ども、小さいの意)」→「小香港」といった連想から、アバディーンと誤解し、気付かれにくいとの判断があったとされる。
実際、アバディーンからそう離れていないうえ、山あいという環境から絶妙に見つかりにくかったようだ。香港島に上陸した旧日本軍が軍事拠点を次々と陥落する状況下で、英軍は補給のために危険を冒して弾薬庫を出入りしなければならなかったが、旧日本軍は迂回し、通過していったのだった。当時は地図にも記されていなかった。
弾薬庫跡の一部は現在、ワインセラーと会員制クラブを併設した施設「酒窖◆(空の工が告)会所(クラウン・ワイン・セラーズ)」に転用されている。2007年には国連教育科学文化機関(ユネスコ)のアジア太平洋地域の文化遺産に認定された。庭先にあるガラス張りのコンサバトリー(多目的施設)は、宴席や会議に使われている。
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一帯は現在、閑静な高級住宅地となっている。良くも悪くも外界と切り離されたような地形だが、実は、香港島を南北に結ぶ道路が通る要所で、英軍の主要軍事拠点だった黄泥涌峡(ウォンナイチュンギャップ)とアクセスしやすい。海にも比較的近く、全くの「陸の小島」ではない。弾薬庫の立地として考え抜かれた場所だったことが分かる。その意味の重みは、平和な時代だからこそ増すようにも思う。
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参考:
「香港戰役」Battle of Hong Kong -1941-https://digital.lib.hkbu.edu.hk/1941hkbattle/zht/data.php?show=item&id=IW00027
「NOT THE SLIGHTEST CHANGE THE DEFENSE OF HONG KONG, 1941(TONY BANHAM著)
「孤獨前哨 再論一九四一年香港戰役」鄺智文 蔡耀倫 著