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タイパ重視の作品消費というのは現代だけではない

現代では作品を消費する速度が速いため、タイパという行為が求められている
それに合わせて作品も創られるようになっている、嘆かわしい、けしからん
こういうお叱りのようなものを言われ、賛同を求められました。
というのも、似た内容をnoteでもしばしば書いているため、それが正義だというかたちで囚われてしまっている人がチラホラおりまして……。

『僕』のクレーム(主張)としてはこのようなタイパ、コスパというものだけを重視されてしまうのはけしからんとまでは言いませんが、一抹の寂しさを感じるというのは本音です。
また、このような作品との関わり方をしていると記憶との結びつきがなく作品への想いというものが形成されないのはせっかく出会えた作品なのに寂しいなぁとかそういう感情くらいでしょうか

この時代の変化によって作品の扱われ方が変化していくというのは何も令和の世の中だけの話ではないのです。
たとえば、三波春夫という浪曲師が昔、いました。
いまの若い方々は知らないかもしれませんが昭和45年の大阪万博でのテーマソングを歌っていた人です。
彼は旧満州での戦争に参加し、その後は4年間シベリア収容所にて過ごします。
彼には浪曲があり、一緒にいた仲間を浪曲で慰めるように歌い懸命に生きました。

帰国し浪曲で生活をしていきますが、時代は高度成長時代を迎えた頃から客席の反応が鈍くなっていきます。
テレビなどの家電の普及、車の普及などがあり移動することでの観光や映画、テレビなどが取り入れられた世界は生活のテンポが速くなったせいか一つの演目が長い浪曲をジッと長く聞いてもらうことが難しくなっていきます。
そこで大衆に喜んでもらうために浪曲にこだわる必要はないという決断をすることで歌謡曲の世界へと飛び込むのです。

このように生活形式の変化は人々の作品の楽しみ方、文化なども変化させてしまうということです。
それゆえ、今回の主題であるエンターテイメントの消費の速さというものは今に限っていえるものではないというわけです。

こういった変化をどのように捉えるかは人それぞれですが、どのような変化があって現在における生活様式や価値観の変容が起きているのかということは考えておくことが大切なのではないかと考えているのです。

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