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令和の現実:日本では人間らしい暮らしは贅沢品?

現在、令和の世になって、これ6年ほど経とうとしている。

人の暮らしはよくなったかというとまったくその実感はない。
それは経済的な指標、人の自殺率、社会的な指標とどれに当てはめてもその結果が示しています。
しかし、それはただの外から持ってきた物差しであり、それを当てはめて考えるのは違うのではないかという反証を持ってくる人がいる。
では、肌感覚でどうかと感じると、これもまたすこぶる悪い
人間らしい暮らしというものは贅沢品とされ、それを揶揄する舞台は整えられていて、それはそれは綺麗なものであります。

同じような顔も見た事のない人、いえその先には同じ陣営の仲間なのかもしれない人、いえ、もしくは人ではなくbotかもしれません。
そんな人たちの鬱憤の吐口への吐露する言葉のバリエーションは一丁前に増えていきます。
そんなサーカスはエンターテイメントになっていて、では実際に自分たちの生活を、社会を、世界を守ろうとかは考えるわけではないのです。
行動を起こせば“イタイやつ”というレッテルを貼り嘲笑の対象とするか無関心を持つのです。

国や社会の責任を問う前に「個人の責任」というものを持ち出して自慰を求めるのは上に立つ人間のやり方であります。
なんともこれ不快ではありますが、それをおいそれと受け入れてしまう今の人たちの弱さというものもあります。
個人の責任、個人主義というものを美辞麗句な言葉を持ち出しますが、そこまで個人というものは万能ではないということを理解しなければなりません。

『僕』たちは国というものを変えられるはずなのですが、それをしないという選択をしています。
世が世ならば一揆、テロ、運動が起きてもおかしくない状態でありますが行儀のいい民主主義を倣う国で生きる人たちは何もしないのです。
自分達の暴力という装置を国に受け渡し、みかじめ料として払っている税金も渡しています。
この契約は『僕』たちの生活や人間として生活することができるためのものであるはずが、人間という生活をさせないような仕組みとして働いているのです。

国というものはもはや空気、自然であり、そのものがそこにあるモノとして扱っています。
しかし、その空気、自然が綺麗であるならばよいのですが汚染された空気、自然なのです。
こういった閉塞感は飢餓などの命の危険と隣り合わさる世界で、しかし、何か弱いモノたちが支え合った昔の世界にもありました。
そして、そこには少し先には希望がありました。

では、令和のいまの世はどうでしょうか
生きるという意思、力はどこかへ置いていて生理的な反射で生きている人間がどれだけ多いでしょうか

もはや、自分だけがこの世界に住んでいる
他の人のことは知らないよ
ましてや、人だけじゃない、他の生き物も……
余裕のなさは自己の不安感と不寛容をいつも持ち歩くようになります。
その隠し持った暗器は他者を殺し、自分をも殺す
しかし、それに気づけていない

なんとも不思議な世の中である、令和

はたらけど  はたらけど
    猶わが生活(くらし)樂にならざり
                 ぢつと手を見る

石川啄木









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