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映画『ファーストキス 1ST KISS』の硯駈と、ジャム、キミ、シャンパン
※本記事は映画『ファーストキス 1ST KISS』のネタバレを含みます。ご注意ください。
坂元裕二が脚本を手掛けた映画『ファーストキス 1ST KISS』(以下、『ファーストキス』)には、彼のこれまでの作品との類似性を感じる要素がちりばめられていた。
「一度は離婚した夫婦が関係の再構築を図る」という点ではドラマ『最高の離婚』との共通性を感じられるし、「夫婦の間に徐々に溝が生まれて、それが広がっていく」という描写からはドラマ『カルテット』が想起される。
特に『カルテット』は『ファーストキス』と同じく松たか子が主演で、このドラマについて語りだすと長くなるのだが、本記事では映画『花束みたいな恋をした』との類似性から話を始めたい。
『花束みたいな恋をした』との類似性
『ファーストキス』の駈とカンナ
『ファーストキス』は、単純にまとめるなら、硯カンナ(松たか子)がタイムトラベルを繰り返し、電車の事故で亡くなった夫・硯駈(松村北斗)が事故に遭わなくて済むよう、過去を書き換えようとする物語だ。
映画の序盤で、カンナと駈が夫婦になってから事故当日を迎えるまでを描いた回想シーンが挿入される。
カンナと駈は付き合って1か月足らずで結婚し、駈はそれを機に古生物研究者としての大学での仕事を辞め、不動産会社に就職する。
駈が大学への退職願を書く場面で、カンナと駈は以下のようなやり取りをする。
カンナ 駈が会社員になって上手くやっていけるのかな
駈 今の給料じゃ食べていけないし
カンナ わたしもまだ仕事ないけど頑張るし
駈 カンナはいつか立派なデザイナーになれるよ
このやり取りから、当時の二人は、二人で安定して暮らしていくに十分な収入を得ていなかったことがうかがえる。そして、駈が転職を決めたのは、大学の(おそらくは任期付の)研究員という身分の、経済的な不安定さゆえなのだと推察できる。
転職した後、駈は次第に、新しい仕事やその職場での人間関係に時間や心を割くようになる。カンナとの約束よりも、職場の上司と一緒にやる草野球を優先する。カンナに話しかけられて仕事の手を止められると、迷惑そうな態度を取る。
やがてカンナと駈は会話も視線も交わさなくなり、二人は離婚へと向かう。事故当日には、駈が離婚届を役所に提出することになっていた。
『花束みたいな恋をした』の麦と絹
『ファーストキス』の回想シーンでの二人を見ていると、『花束みたいな恋をした』の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)が思い出される。
大学生の時に付き合い始めた麦と絹は、卒業後、二人とも就職せずにフリーターとなり、東京郊外のマンションで二人で暮らす。麦は主にイラストレーターの仕事をして、絹はアイスクリーム屋でアルバイトをする。
ある日、麦の父親が新潟から二人の家にやって来る。安定した職に就かずに暮らす麦の様子を見た父は、月5万円の仕送りを打ち切ると宣告する。仕送りを打ち切られた麦は、アーティストの先輩の仕事を手伝ったり、イラストレーターの仕事に力を入れたりして生計を立てようとするのだが、イラストの単価を引き下げられたこともあり、それだけでは暮らしがままならない。そこで就職活動を始め、結果的に物流会社に就職する。
二人はもともと、文学、映画、音楽などのカルチャーの趣味が似ていたことをきっかけに距離を縮めた。麦が就職したのと同時期に歯医者の事務の仕事に就いた絹は、就職後もカルチャーに興味を持ち続ける。一方で、麦は仕事に傾倒し、絹がすすめる作品には興味を示さないし、就職後も描き続けると言っていたイラストは全く描かなくなる。そして二人の生活や価値観はすれ違いはじめ、最終的に別れを迎える。
相似形をなす駈・カンナと麦・絹
こうして振り返ってみると、『ファーストキス』の駈とカンナ、『花束みたいな恋をした』の麦と絹は相似形をなす二組として描かれていることがよく分かる。自分のやりたいことを仕事にしていた男性が、女性と二人で暮らしていくために安定した収入を見込める仕事に就き、仕事に熱を傾け出す。それをきっかけに、男性と女性の距離が離れていく。主たる要素だけを抜き出せば、全く同じに見える。
しかし、『ファーストキス』のある場面を見て、その印象が少し変わった。中盤で挟まれる、駈とその上司である大学教授・天馬市郎(リリー・フランキー)がやり取りする一連のシーンだ。
駈が置かれていた状況を捉えなおす
ジャム、キミ、シャンパンに見る教授・天馬と研究員・駈の関係
映画の公式サイトでは、天馬は「古生物学の教授。研究員の駈のことを可愛がり、頼りにしている」と紹介されている。
天馬は、カンナがタイムトラベルを繰り返す序盤のシーンで何度か登場するが、紹介文の通り、そのシーンでは天馬は駈を目にかけているように見える。酒が飲めない駈は、天馬に注がれたシャンパンを無理に飲んでむせたりしているが、二人の関係は特に悪いものではなさそうに映る。
二人の関係が少し違う様相に見えてくるのは、中盤、ホテルの部屋で眠る駈が、ノックの音で起こされるところから始まる一連のシーンだ。この映画の中では数少ない、カンナが直接関与しないシーンであり、今までとは異なる物語が始まったという印象を強く受ける。
まずは、ジャムの場面。上に書いた通り、駈はノックの音で無理やり起こされるのだが、そのノックの主は天馬だ。駈が部屋のドアを開けると、天馬は「このジャムさ、僕を馬鹿にしてるのかな」と言ってジャムの瓶を駈に差し出し、蓋を開けさせる。駈が蓋を開けると、天馬はもう一つ持っていた瓶も差し出して、駈に蓋を開けさせる。特に感謝するそぶりは見られない。
天馬はこんなしょうもないことで、寝ている駈をわざわざ起こすのである。この場面はコミカルでもあるので、ここではまだ天馬がそれほどひどい人間だという印象は受けないかもしれない。しかし、天馬が当たり前のように駈に蓋を開けさせようとしていることからは、天馬が日常的に、古生物研究とは全く関係のない身の回りの雑用を駈に押し付けていることがうかがえる。
次に、学会会場の場面。天馬は駈を「キミ」と呼びつける。そして、会場に用意すべき本の冊数が足りないことについて、駈を責めたてる。
本が足りないことについては責任の所在が分からないので措いておくが、ここで注目したいのは天馬の態度である。ここまでの場面では(他作品でのリリー・フランキーの役柄も手伝って)年相応の渋みのある人間に見えるが、この場面では高圧的な人物に映る。
何より、「キミ」という呼び方が気にかかる。天馬は駈のことを「可愛がり、頼りにしている」のだから、ある程度長い年数を一緒に過ごしているはずだ。なのに、駈を名前で呼ばずに「キミ」と呼びつけるのである。部下をぞんざいに扱う横柄な人間だという印象が強まってくる。
極めつきは、二人がシャンパンを飲む場面だ。酒を飲めない駈がシャンパンを飲んでむせるのは上で述べたとおりだが、その後、天馬が駈に「男だろ」と言って、駈のグラスにシャンパンを注ぎ足すのである(そして駈はそれを飲んでまたむせる)。序盤のシーンでも天馬がシャンパンを注ぎ足す描写はあるのだが、序盤のシーンにはなかった「男だろ」という台詞が加わることで、天馬が駈に無理に酒を飲ませているという印象が強まる。
改めて考えてみると、先ほども言及したように天馬と駈はある程度付き合いが長いはずで、駈が酒を飲めないことは、天馬も当然知っているはずだ。にもかかわらず、無理やりに酒を飲ませようとする。それも「男だろ」と言いながら。アルハラであり、セクハラである。そして駈は、むせると分かっていながら、天馬に注がれた酒をいつも断れずに飲むのだ。
上に挙げた3場面はどれも短く断片的で、これだけでは天馬が駈に対してパワハラをしているとまでは言い切れない。しかしこの3場面のようなやり取りが日ごろから繰り返されていることを想像すると、「駈は天馬からパワハラを受けていると感じているかもしれない」との見方ができるのではないか。
天馬の態度は、人によっては特にパワハラとまでは感じず、耐えられる程度のものかもしれない。あるいは、天馬の過度な要求や指示に対しては、毅然とした態度で断れば済む話かもしれない。
しかし、駈は初対面の人に対して、ニッチな自分の研究分野について嬉々として語るようなマイペースな人間である。天馬の都合に四六時中振り回されるようなことは耐えられないのではないか。加えて、ジャムの瓶の蓋を開けていることや、シャンパンを飲んでむせていることに象徴されるように、天馬の要求や指示を断れずに仕方なく受け入れている。駈にとっては相当にストレスが溜まる環境だろう。
駈の転職理由を再考する
以上を踏まえると、駈が不動産会社に転職した理由は、「二人で暮らしていくための給料を得る」という経済的な事情だけではない、という可能性が浮かんでくる。
じっさい駈は、カンナと交際・結婚する前からすでに転職を視野に入れているのである。
序盤、駈がタイムトラベルしてきたカンナと一緒にかき氷屋に並ぶシーンで、以下のような会話が交わされる。
駈 すいません、退屈な仕事の話をしてしまいました
カンナ 退屈じゃありません、素晴らしいお仕事です
駈 今の立場で仕事と言えるのかどうか
カンナ 大学教授になればいいじゃないですか
駈 簡単になれるものじゃありません。転職も考えないと。
この会話は、上述の3場面より前に置かれている。だからこの時点では、「駈は研究員という身分が不安定で給料の低い仕事に嫌気がさして、転職を口にしたのだ」というように見える。
しかし、3場面を踏まえると、駈は天馬との関係を断ち切りたくて、転職を考えているのだとも受け取れる。駈が大学の准教授や教授の職を得るまでの間は、おそらくは天馬の下で研究員として働き続けることになるだろう。そして、今の大学、あるいは他の大学で職を得られたとしても、天馬との師弟関係は続く。
だから、仕事とは言えないような身の回りの雑用まで押し付けられる今の環境を抜け出して、天馬との関係を切り、新たな職に就きたいと考えていたのかもしれない。
ここまで見てくると、『ファーストキス』の駈と『花束みたいな恋をした』の麦が置かれた状況は、よく似ているようで少し違うということが分かるだろう。麦は「このままでは二人で暮らしていけない」という経済的な事情を主たる原因として就職したが、駈の転職理由はおそらくそれだけではない。経済的な事情が駈の前に立ち現れるよりも前に、天馬との関係を理由として転職を検討していた可能性が高いのだ。
駈とカンナの関係
駈の目の前に現れたカンナという存在
ここで話題を転じて、駈とカンナの関係に注目したい。
天馬との関係に苦しめられ、ストレスフルな日常を過ごす駈の前に突然降ってくる(文字通り、降ってくる)のが、カンナだ。カンナは駈を、日常から離れた場所に連れ出してくれる。
カンナと駈は一緒に、「並んでまで食べるものではない」かき氷屋の行列に並ぶなんていう、「バカ」がやることをする。列に並びながらカンナは駈に「二人でパン屋さんはじめましょう」と言い、駈はカンナに首都高の構造の話をしたりする。駈はカンナと一緒に、役に立たない話や空想の話をしながら、バカなことをするのだ。
これまで駈の日常にいた女性といえば、天馬の娘・里津(吉岡里帆)だ。カンナは、充電器という「役に立つもの」のことしか言わない里津とは、対照的である。駈にとってカンナは、自分を今とは違う世界、非日常の世界に連れて行ってくれる存在なのだ。鬱屈した日常を過ごす駈の目に、カンナはどれほど魅力的に映っただろうか。
もちろん、カンナがタイムトラベルしてくる前の世界では、若いカンナと駈はかき氷屋に並ばず、パン屋の話もしていないだろう。それでも、二人は役に立たないことばかり話して、バカなことばかりしたはずだ。そして二人は強く惹かれ合い、交際を始めるのだ。
駈はなぜカンナとの結婚を急いだのか
先に述べた通り、二人は交際を始めてから1か月足らずで結婚する。二人の気の合いようからすれば、すぐに交際に至るのは理解できるが、結婚するのはやや性急にも思える。
映画を最後まで見れば「駈のカンナに対する思いの強さがそれだけ強かったのだ」ということはよく分かる。しかし、ここであえて野暮な見方をすれば、駈は研究員を辞めるきっかけが欲しかったがために、結婚を急いだのだとも考えられるのではないか。
研究員を辞めるとなると、天馬をはじめとする周囲の人間に退職理由を説明する必要がある。古生物への愛が強い駈が研究員を辞めるのだから、周囲はそれなりの理由を求めるだろう。そのとき、教授との関係を理由にすれば、角が立つ(もちろん人間関係を理由にして退職することには何の問題もないのだが)。一方で、「結婚を機に安定して生計を立てるため」と言えば、周囲に納得してもらいやすい。加えて、駈自身としても踏ん切りがつきやすいだろう。
駈の性格を踏まえれば、今ここに書いたほど打算的には考えていないだろうが、「環境を変えるきっかけとして結婚を選んだ」という部分は少なからずあったのではないだろうか。
駈とカンナの結婚生活
そして二人は「好きなところを発見し合う」恋愛の期間をほとんど経験しないまま、「嫌いなところを見つけ合う」結婚生活へと突入する。
駈が就職した不動産会社は、休日に社員が集まって草野球をするような、ウェットな人間関係のある会社だ。マイペースな駈のことだから、ここでも日々ストレスが溜まるだろう。天馬との関係を絶ったとて、仕事のしんどさは解消されないのだ。
さらに、結婚相手のカンナは、柿ピーの好みも朝ごはんの好みも合わない、根本的には価値観の合わない人間である。仕事で疲れ切った駈には、カンナと合わないところ、カンナの嫌いなところばかりが見えてしまうようになったのだろう。
結果として、カンナがタイムトラベルをする前の世界では、二人は会話も視線も交わさなくなる(もちろん、駈だけでなくカンナも、相手の嫌いなところばかりを見つけてしまったがゆえの帰結だ)。そして駈は襟の黄ばんだシャツを着て、「誰からも気にされない」まま亡くなるのだ。
一方、映画終盤で描かれる通り、カンナがタイムトラベルをした後の世界では、二人は別れの日まで仲良く暮らす。
駈の転職先は明示されていないが、タイムトラベル前と同じく不動産会社に転職したとすれば、仕事でのストレスは同様に感じているだろう。そんな中で、駈がカンナとの関係をタイムトラベル前と変えられたのは何故だろうか。
それは、駈がカンナの好きなところを日々見つけようとし続けたからだろう。駈が遺した手紙には、駈から見たカンナの好きなところがいくつも綴られている。駈の強く深い愛を感じられる、素敵な手紙だ。
駈は、ただ単に結婚して転職して、天馬との関係を断ち切るだけでは、幸せな暮らしを手に入れることはできなかった。日々、「カンナとの結婚生活をより良いものにしていこう」「カンナの好きなところをたくさん見つけよう」との思いを持ち続けることで、終わりを迎えるその日まで、カンナとの幸せな結婚生活を送ることができたのである。
以上、『花束みたいな恋をした』との類似性を起点に、「ジャム、キミ、シャンパン」の3場面を軸として、『ファーストキス』における駈の転職理由や、駈とカンナの関係について考えてきた。
本記事に記載した内容は、あくまでいち観客のいち解釈に過ぎない。映画『ファーストキス』は、観た者それぞれが自分なりにシーンの意味を考えてみたくなるような、奥行きの深い映画だ。