『春宵十話 随筆集』(岡潔)を読んで
発見の鋭い喜び
岡潔は感情的であること「情緒」を大切にします。あのポアンカレーが数学の発見をしたのに喜びを出していないことに訝しがる、そんな岡潔。
彼にとって数学における発見の喜びとは「チョウを採集しようとして、みごとのやつが木にとまっているのを見つけたような気持ち」であると表しています。こういう表現は寺田寅彦の影響なのだとか。
そして、いかにして「ひらめき」が生まれるかというお題となります。当時、未解決問題に煮詰まっていたとき、ふと誘われて北海道に訪れていたときに発見(の喜び)が生まれた、そんな話の流れでクリップ。
全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠っているような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。
放心状態はまさに『フルライフ』におけるBeing(あるがまま)のことだ。ふとしたときに浮かぶことを「天から降ってくる」かのような表現もあるけれど、動と静、DoingとBeingのバランスがひらめきをつくってる。
もう一つ関連したことがあるので紹介します。
宗教について
どうしても「宗教」というワードに身構えてしまいがち。岡潔は戦後、自ら宗教の必要性を感じて実践もしているわけですが、宗教をわりとフラットにとらえている印象があるので、宗教とは何かについて言及しているところなどクリップします。
宗教はある、ないの問題ではなく、いる、いらないの問題だと思う。
宗教と理性とは世界が異なっている。簡単にいうと、人の悲しみがわかるというところに留まって活動しておれば理性の世界だが、人が悲しんでいるから自分も悲しいという道をどんどん先へ進むと宗教の世界へ入ってしまう。
で、ここです。
理性的な世界は自他の対立している世界で、これに対して宗教的な世界は自他対立のない世界といえる。自他対立の世界では、生きるに生きられず死ぬに死ねないといった悲しみはもうしてもなくならない。自と他が同一になったところで初めて悲しみが解消するのである。
「自由」や「自立」がもてはやされる・求められる時代、「自他対立」は現代社会の構造に組み込まれており、人の世の底知れぬさびしさを味わうかもしれません。そこで自と他を同一させる手段としての宗教があります。
ここで再度『フルライフ』。じつはこの本においても結論として「Well-Beingとは、自分を忘れること、自分から離れること」であるとしています。いかにして自己中心性から離れているか。
『フルライフ』では自分を忘れる方法として、宇宙から地球を眺めた宇宙飛行士が体験する心理効果「オーバービュー・エフェクト」を紹介しています。自分という存在が消えて宇宙そのものと一体化するような感覚を得ることです。
よく生きるためには自分を忘れる、自己中心性から離れることはたしかに大事。でもその手段は多様にあって、自分に合うものをちゃんと選んでいきたいものですね。
というわけで以上です!