『ゴリオ爺さん』を読んでみた〜光文社古典新訳文庫を読もうシリーズ〜
一生をかけて光文社古典新訳文庫をじっくり読んでみる。そんなシリーズを始めてみようと思います。
1814年、ナポレオンに代わってルイ18世が即位。王政復古の名のもと貴族制度が復活したフランス。物語の舞台は、社交界が息づき、お金と見栄と、ゾンバルトもびっくりするような恋愛と贅沢が蔓延るパリ。
小麦商人のペール・ゴリオ(以下、ゴリオ爺さん)は革命と隣り合わせの不安定な社会を乗り切り、製麺業で財を成した。
『ゴリオ爺さん』とは、父親である彼が愛情を注ぎ続けた娘二人から集られ、犬死にする小説?いったいバルザックはいったい何を描いたのでしょうか。
激動の19世紀フランス
バルザックは1799年生まれ。19世紀とともに人生を歩み、51歳で若すぎる死を遂げます。19世紀のヨーロッパは教育が進んで識字率が向上し、小説やジャーナリズムといった活字文化が花開いた。
まさにバルザックはその時代を見抜き、作家になることを決意します。
起業家の顔もあるようだけど、いずれも上手くはいっていないよう。そして小説の方もなかなか芽が出なかった。
それでも書き続けた。
そうしてたどり着いた方法、発明が「人物再登場」。その記念碑的な作品が本書『ゴリオ爺さん』だというのです。
「再登場」だけでいえば、たとえばマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』から『ハックルベリー・フィンの冒険』の流れなど、続編として異なる人物にスポットを当てる手法はあります。
でも、バルザックの射程距離はもっと広い。激動のフランス社会そのものを「人間喜劇」として小説に描き切ろうとしました。
バルザック的世界観を今回はじめて体感しました。たとえるなら映画のマーベル・シネマティック・ユニバースにおける「アベンジャーズ」だけ観ているような状態でしょうか。
ラスティニャックもヴォートランもビアンション(とくに登場回数が多いらしい)も、バルザックの別の作品に登場している(する)のです。
ゴリオ爺さんの父性愛
「お金こそが人を幸せにする!」このようなお金に対する価値観を持った人はいまも昔も存在していて、コクのある人物としてゴリオ爺さんは描かれています。
娘たちがお金が回らなくなったときのあの狂気。苦労をいとわない絶対的な娘への愛情。病床で気がふれからは、その愛情は憎しみにさえ昇華した。
お金に代えがたい愛情を持っていたはずなのに、娘たちにとってゴリオ爺さんは愛情=お金。
つまり、お金のない彼は用済みだった。
では、娘たちが冷酷だったと言い切れるのか?いや、それとも「歪んだ父性愛」を押し付けてきた彼のエゴが報われなかっただけなのか?
当時の幸せの尺度は富=お金であったことは間違いない。もしも自分が不安定な社会で仮に娘を持つ親の立場だったとして、ゴリオ爺さんを笑えるだろうか。
構造主義的にいえば、自らの行動は無自覚的に社会に規定される。それを考えると、なかなか深いテーマのような気がします。
ラスティニャックの成長物語
田舎貴族のラスティニャックはそんな妬み、僻み、恨みといった有象無象の感情が渦巻く社交界に宣戦布告をして、物語はラストを迎えます。
彼は家族からお金を借りて着飾り、偶然にもギャンブルに勝つ=お金によってゴリオ爺さんの娘と急接近し、お金をきっかけに謎の男・ヴォートランに揺さぶりをかけられます。
そしてゴリオ爺さんと娘たちの間を繋いでいた、お金ありきの「縁の切れ目」を目撃することとなります。お金でてんやわんやする人間を嫌でも実感したはず。
娘たちは危篤になった親を見舞うことも、看取ることもない。一度は愛したデルフィーヌは専ら舞踏会への興味ばかり。
気がつけばラスティニャックが最後までゴリオ爺さんに付き添った。
お金を通じて学生ラスティニャックが成長していく物語と読むこともできそうです。ヴォートランの誘惑に間一髪逃れていなかったらどうなっていたことやら。
では、その後ラスティニャックは社交界とどう向き合うのか、着実に出世していくのか?上り詰めた先にどんな景色が待っているのか?
デルフィーヌのことを最後「ニュッシンゲン夫人」と呼んでいることからして、もうそこに愛はないのか?
後日談は『幻滅』に記述されているようです。バルザックは当時のフランス社会を教えてくれる、楽しいジャーナリストのようですね。
というわけで以上です!