代謝する街、代謝する自分

研究室に行く途中、住み慣れた街を通る。卒業した大学のキャンパスのひとつがそこにあって、当時は近くに部屋を借りて主に自転車で通っていた。

その街にはまだときどき行くことがある。そのたびに少しずつ変わっている。再開発が進み、新しいビルに置き換わっていく。足しげく通った店はまだあるだろうか、とわざわざ様子を見に行くときもある。

街は少しずつ代謝されていく。地域のスーパーは駅前のスーパーに押されて高級賃貸マンションに建て変わった。老舗の菓子司は銀行に、鶏肉屋は和カフェに、飴屋は更地に、たこ焼き屋はタピオカドリンクに、ケーキ屋はペットショップに、駅ナカのモールのテナントだった沖縄料理屋も甘味処もドラッグストアになった。

その場所が消えると、その場所であったできごとを思い出しにくくなる。ふだん暮らしている街でも、ある日シートに覆われた区画を見て、そこに何があったか思い出せないことも少なくないのに、時が経ち引っ越してしまうとなおさら、思い出の手がかりは失せてしまう。

体内で細胞が置き換わるように、街も日々代謝されて、その移り変わるひとつひとつを見ればさびしさもあるけれども、それが生きているということであって、自分自身も、当時そこに住んでいた自分とはもうまるで異なる人間なのだ。さまざまなことを知り、考え、経験して、同時にさまざまなことを知らず知らず忘れている。

さびしさは全てを望みすぎる欲の残渣のようなもので、手に入らなくなったから取り戻したくなるが叶わないという現象の結晶なのだ。持つものをいくらでも増やし続けられるわけではない。失うから新しいものが持て、失うことが分かっているから変化と限界に挑戦する意欲が湧く。それも、ひととしての代謝、魂の代謝。



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