「ひれふせ、女たち」を読むなど。

ミソジニーとは何なのか


ミソジニーとは、女性の義務と男性の権利を規定する社会的規範である。これこそが本書の最も中心的な指摘だろう(と解釈した)。ミソジニーを、女性嫌悪の心理と位置付ける従来の定義は、女性を攻撃するあらゆる言行の責任追求を困難なものとする。なぜなら、第一に、他人の心理を客観的に把握することは不可能である。そして第二に、加害者は「自分は母親を愛している」と述べることでいとも容易くミソジニストの誹りを免れることができる。そして実際、こうした加害者は女性を無条件に嫌うわけではなく、むしろ、母・妻・娘といった様々なラベルの女性からの受益ー性的奉仕、家事、育児…etcーを期待している。だからこそ、ケイトマンは、ミソジニーは女性一般を対象にしているというよりむしろ、男性による期待に応えない(性的奉仕、家事、育児)を行わない女性に対する報復であると論じる。その意味で、ミソジニーとは生理的な女性嫌悪から完全に区別される。それは、理想の女性像を固定化し、家父長制を維持するために形成された極めて意図的な社会システムなのだ。

Dehumanization

もう一つ、主題と関連しながらも独立した興味深い議論として、非人間化の論点がある。非人道的なあらゆる行為において必ず登場する非人間化(例えば、鬼畜米英のスローガン)であるが、ケイト・マンはこうした残虐行為において非人間化はさほど重要でないと論じる。どういうことか。彼女は様々な理由付けを行うが、特に説得的なのは、対象を人間として認識しなければ、そもそも非人間化を行うことができない、というロジックである。確かに、ドブネズミをドブネズミと呼んだところで、それは我々のドブネズミに対する認識を変えはしないだろう。それと同様に、対象に誰よりも人間性を認めるからこそ、そうして初めて非人間化は効力を有するのである。ミソジニーとの関連でこの議論がなぜ重要かと言えば、それは、「ミソジニストは女性を非人間化している」わけではなく、女性を人間的存在として十分過ぎるほど認識しているが故に、彼らに義務を背負わせ、その不履行の罰を与えることが可能になるからである。つまり、女性を人間化するアプローチ、例えば、「男も女も同じ人間だ!」のようなスローガンは、ミソジニーの解決において全く役に立たないということである。

結論

フェミニズム的な観点に留まらず、多彩な論理展開を楽しめるという意味で、おすすめの一冊である。不公正な社会システムとは、悪意からではなく、受益者本人からしてみれば正当な道徳的規範から導かれる、という命題は、他の文脈においても広く応用可能であるように思われ、非常に興味深い。


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