【エッセイ】生活と創作のあわいに(いでよメソポタミア) 有門萌子
時間、足りていますか?
足りていても足りていなくてもこれ以上でも以下でもないので日が昇ってはまた沈むいちにちを繰り返しているのですが、その間を流動していくスケジュールが伸びたり縮んだり跳ねたりと活きのいいものばかりであまり息がつけないなというこのごろです。争いは避けたいと思いつつ、やはり日が沈むまでには届いていたいところがありそのためにやむを得ず、めくるめく"時間に勝負を挑みつづける"日々を繰り広げています。
原因として思い当たるところは「やりたいことが多すぎる」に尽きるのですが"やりたいんやからやったらええやん"精神に育まれているやる気の手足がやりたいことに終わりが見える前に新たなやりたいことを手当たり次第に投げてくるので容量の狭い部屋の中にやりたいことばかりどんどん積み重なっていき日は沈むのにわたしの今日はぜんぜん終わらず、果てしなく終わらなくてもうそのまま終わらなくたっていいのに、なんて夜が創作の宵にはありませんか。
ありがたく無情にも朝日は窓からやってくるので創作の淵で溺れていたひとりの女は岸へと打ち上げられ自動装置的に生活の川の流れに身を浸しにゆくのですが、顔を洗い一応の姿を整えながらも両手は創作の流れのなかで無我夢中で掴もうとした藁の感触が忘れられず締められた魚の身のような引き攣りを数回起こしてから朝食の用意に取り掛かってみればさすが年季の入った生活者の証明として卵も取り落とさずなんとも手なれた包丁さばき。ただやっぱりあまり要領がよろしくないという個性は輝かしくも拭えないわけで生活の川の流れに身を任せていたとしてもスムーズに美しく流れていけるというわけではないのでした。
「生活?そんなものは召使い共が代わりにやってくれる」とリラダンのアクセルよろしく言えたら良いのにと三角州の向こうに流れるもう一つの川を遠目に見遣ってはペンのかわりに掃除機をにぎり、エコバッグを忘れないように気をつけながらそっと(きっとひらけない)メモ帳もカバンに忍ばせて夕飯の買い出しにゆけば、おお、足を使って歩いているとなんだか生活の川から抜け出して創作の岸辺まで歩いて来れたような気配が。どんな景色が見えるのかわくわくしていても足は砂地を踏むばかりでいっこう沼地にもならず肝心の創作の源には触れさせてもらえないままたどり着いたフレッシュスーパー特売三割引、今日の献立が流れるように決まっていくので気がつけばまた台所の前に立ってもう日は暮れました。
なんだかんだで家中が寝静まり、月明かりのなか音もなく生活の川から抜け出て向かうは三角州のなかほどに建てた祭壇前。身長よりも背の高いその棚には本がたくさん並び、どれもが聞こえない音域でささやき声を交わしています。呼び声のする本をひらけばあっちの川に誘ってくれるというひそやかな声たちのさざめき。今晩聞こえてくるのは「一呼吸ごとに詩せよ」という永瀬清子の声。そのうしろではイエイツが「I hear it in the deep heart's core.」と繰り返し、辻征夫が「月光」に照らされて「ハイウエーの事故現場」を眺めているとなりで北原白秋が芸術の詩の円光に涙している。"書くとは語ることを止め得ぬもののこだまとなることだ"というブランショの響きに重なるように流れてくるのは伊東静雄の声"自分の本当の才能を見極め、自分に真に適したことを着実にやってゆくのが大切であるということ。自分の力を過大にも過小にも評価しないで、生かしてゆくように"などなど。
ギリシャ語で「二つの川のあいだの場所」を意味するメソポタミア。チグリス川とユーフラテス川に挟まれてすばらしい文明を生んだ肥沃な土地。こっちの川とあっちの川、どちらが欠けても潤わないこの土地とその地中深くに撒かれたまだ芽の見えない種がこの足元深くどこかに…なんて未来の所在を夜に思ったりしてしまうのは、我が愛すべき宿敵のおもうツボで、ああこれは今まさに虚につけ込まれてるなくわばらくわばら…と唱えながらも抜き差しならない時間の手練手管にうっとりしてしまうくらいには身も心も持っていかれているわけですがなんとか明日も川を行き来できるよう精進したいと思います。
※参照
・ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』
・永瀬清子「流れるごとく書けよ」
・W・B・イエイツ「The Lake Isle of Innisfree(湖の島イニスフリー)」
・辻征夫「月光」「ハイウエーの事故現場」
・現代詩文庫1007「北原白秋詩集」
・モーリス・ブランショ『文学空間』
・庄野潤三『前途』
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