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人の話を適当に聞いていたら、本を書くことになった話
「え?ほんとに本を書く人になっちゃったの?」
そう、私は本当に今、本を書く仕事をしている。
適当な相づちによって与えられたミッション
さかのぼること7年前、2017年11月。
私はとある専門商社で貿易事務の仕事をしていた。27歳だった。
この会社で過ごす時間は、残り2ヶ月。
いろいろあって外資系企業への転職を決めたことは、まだ上司と人事部にしか知られていない。
私は日常業務をこなしながら、せっせと引き継ぎ資料を作成していた。
辞めると決まったら、あとは何の問題も起きないことを願いながら最終出勤日までおとなしく過ごすだけ……のはずだった。
資料を作っていると、各デスクに1台ずつ置かれた電話機から、外線の呼び出し音が一斉に鳴った。
ディスプレイには「会長」の文字。
慌てて3回目のコール音が鳴り終わる前に受話器を取り、腹から「はい!」と発声する。
当時、喜寿の誕生日を翌年に控え、仕事現場から距離を置いていた創業会長から電話がかかってくるときの用件はだいたい2パターンだ。
1つは何か急ぎで対応してほしいことがあるとき。
そしてもう1つは、誰かにそのとき浮かんだアイデアや、話を聞いてほしいとき。
このときの電話は、後者だった。
会長は、20~30分くらい昔の話をしていたと思う。
私は途中から、細かい部分はあまり聞かずに、会長の話の節や調子に合わせてリズムよく「はい、はい」と言ってみたり、ちょっと深刻そうに「えぇ、えぇ」と言ってみたり、「へぇ~!そうなんですか」と驚いてみたり、
とにかく本当にいい加減な、ほぼ合いの手に近い相づちを打ちながら、パソコンで作業を続けていた。
話の内容は正直なところ、ほとんど覚えていない。
会長の長電話はまったくめずらしいことではなく、日常茶飯事だった。
だから、私はこの対応が板についていた。
そうじゃないと、山積みの仕事が進まなくて困ってしまう。
決して不真面目だったわけではなく、そのときはそのときで自分なりになんとかうまくやろうと結構必死だったのだ。
いつもは、この適当な相づちを打っているうちに話が終わる。
でも、この日は違った。
調子よく話を聞いている(フリをしている)と、会長は突然こう言った。
「キミ、そんなに僕の話が聞きたいのなら、インタビューをしてくれないかな」
い、インタビュー?なんの話だ?
急に予想外の話が出てきたので、キーボード上で動かしていた手を空けて
肩で挟んでいた受話器を持つ。
話の内容はだいたいこうだった。
「喜寿の誕生日を迎えるにあたり、会社の創業から今に至るまでの自身の半生と歴史を冊子にまとめたいと考えている。話を聞くのが好きそうで、文学部出身の君だったら僕の話を本にまとめられるだろう」
この瞬間、私の残り2ヶ月の消化試合期間は、未知への挑戦に挑む時間に変わった。
私はこれまで営業と事務しか経験してこなかった人間だ。
そんな人間にインタビューと冊子の執筆を任せるなんて、どうかしている。
でも、逃げようがなかった。会長の無茶ぶりもまた日常茶飯事で、
「できなかったとしても、とりあえずやってみる」というスタンスを取らなければ、大変なことになるのを私は知っていた。
今、会長の気を損ねてトラブルになったら、転職先に予定通り入社できなくなるかも。
そんなことはないのだが、当時は本気で心配した。
とりあえずやる気だけを見せて、早々に「がんばってみたけれど、力不足でした」と、平和にこの突然発生したプロジェクトを終わらせようと思った。
インタビューデビュー戦、開幕
程なくして、冊子制作に向けた初回インタビューの日を迎えた。
持ち物をチェックする。ノートパソコンとメモにペン。事前に会長と会社の歴史について調べてまとめておいた年表。ICレコーダーは、クラシックギターの講師をしている母から演奏録音用に使用しているものを借りて持参した。
深呼吸して、普段は入ることのない会長室の分厚いドアを開け、絨毯の上を歩き、席につく。私のインタビューデビュー戦が始まる。
用意しておいた目次に沿って私は順番に質問を重ねていった。今回はきちんと話を受け止めて、しっかりと心からの相づちを打つ。
会長の話はとにかく面白かった。普段は「長いな~」と思っていた話も、1対1の空間で真剣に向き合ってみると、まったく聞き飽きなかった。
会長室に入ってから半日、事務所に戻らなかった私がようやく自分の席に戻ると、上司や同僚は席に駆け寄って心配した。
しかし、初回のインタビューを終えた私の中からすでに「適当に済ませよう」という気持ちは消えていて「絶対にこの面白い話をうまく冊子にまとめて、みんなに共有するんだ」というやる気に燃えていた。
聞くことに、意味がある
連日、インタビューは続いた。
前もって約束をした日時に話を聞くこともあれば、突然電話で呼び出され、自宅まで話を伺いに行くこともあった。
4~5時間ほどのインタビューを10回くらいは行ったと思う。
正直、冊子を作るための取れ高はもう2回目くらいの取材で十分だったのだが、私は次第に会長が本当に求めているのは冊子制作ではなくて「話を聞くこと」そのものなのではないかと感じるようになった。
20代で平社員の私に、経営者の苦労のすべてを理解することは難しい。しかし、話をじっくり聞いていると、経営者が想像以上に孤独な生き物であるのだということがわかってきた。
話を聞いて受け止めることこそが、私がこの場で提供できる最大の価値なのだ。
冊子には使えないようなネタでも「オフレコですね」と言いながら聞いた。
話の矛盾点が見つかったり、時系列がおかしいぞ?となることもあったが、冊子ではどのバージョンを採用するかをやんわりと確認しつつ、とにかくすべての話を受け止めた。
会長は、私の質問に答えながら、言葉をつまらせて涙を見せた。
中島みゆきの曲を脳内再生しながら、とにかく書く
一通りの取材を終えると、いよいよ執筆に移る。
会長の要望で、ルポ調のフォーマットで文章をまとめることは決まっていたが、私にはそんなものを書いた経験などない。
そこで参考にしたのが、両親がテレビでよく観ていたNHKの「プロジェクト X」の構成とナレーションの原稿だ。
私は頭の中で「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」を何度も再生しながら、取材で聞いた素材を取捨選択し、並べ替え、整えた。
会社でも、自宅でも、とにかく書いた。
国語の教員免許を持っている母に校正を依頼し、1ヶ月ほどかけてなんとか74ページの原稿が仕上がった。
そして、冊子が出来上がってすぐに私は会社を去った。
退職直前まで、会長には私が辞めることを伝えなかった。
いつの間にか、プロのライターになっていた
退職してから3ヶ月後、会長の喜寿を祝う会が帝国ホテルで開かれた。
私はそのパーティーに招かれ、記念冊子の著者として壇上で挨拶をすることになった。
ただの元社員(しかも平の)が、大企業の社長も集まる場で挨拶なんて、とんでもないことだ。
もう何を話したのか記憶から抜け落ちてしまったが、挨拶後に同期がニヤニヤした顔でいじってきたことだけは覚えている。
パーティーには、いつも会社の映像制作でお世話になっている映像監督も出席していた。「彼は〇〇(有名アニメ作品)も手がけた敏腕監督なんだ」と会長から紹介を受けた。その監督は私にこう言った。
「こんなに書けるなら、プロのライターになれるよ!」
そのときはライターになる気などまったくなかったし、「またまた……」と恐縮するだけだった。
しかし、それから3年後、私はなぜかライターになった。
特にこの件がきっかけでライターを志すようになったわけではなく、本当に導かれるように、いろいろなことが重なっていつの間にかフリーライターになっていたのだ。
ただ、ライターとして活動を始めてから、この経験が何度も私を励ましてくれたことは間違いない。
難しい仕事もめげずに取り組めたのは、会長の無茶ぶりのおかげだ。
そして書く仕事を始めて4年目となった今年の春、noteを見て声をかけてくださった編集者の方から
なんとビジネス書のブックライティングの仕事をいただいた。
今、私は経営者へのインタビューと原稿の執筆を仕事にしている。
想像していなかった未来
あれだけ必死の思いで作った冊子を、私は実家のどこかでなくした。
なくしたことに気が付いたのは、初めての担当本が執筆フェーズに移ったころ。
ふと「私ってあのときどれくらい書けていたっけ?」と思い、実家に帰ったときに引っ張り出そうと思ったが、どこにも見当たらない。
でも、どうしても今、あれを読み返したい。
私は、久々に勤めていた会社に電話をかけて、自宅に冊子を1部送ってもらえないかとお願いした。
会長は今でも時々思い出したように私の話をするらしい。
電話がきっかけで、6年ぶりにお世話になっていた元上司、同じ部署で働いていたメンバーと飲みに行くことになった。
皆、退職してから私がどんなふうに過ごしていたのかを知らない。
近況報告としてライターになったこと、本を書いていることを話すと
元上司はビールを置いて驚いた表情でこう言った。
「え、ほんとに本を書く人になっちゃったの?人生何があるかわからないね!」