価値って一体。
きっとデザイナーズモノも古着(ヴィンテージ)もどうしてあんなに高い価格がついているのだろうと不思議に感じることがきっとあると思う。
…………
僕の意見として、
古着(ヴィンテージ)は年代の古いモノであればあるほど現存数が少なく希少価値を含めた価格が付いている。あまり知られていないような当時のストアーブランドものや無名のブランドモノはさらに現存数が少なくやはり希少価値がある。既に玉数が少なくなってきているリーバイスやリーなどのデニムブランドがいい例だし、最近で言うなら50-60年代の軍モノの価値も少しづつ上がってきているらしい。
ただ比較的新しいものであったり、今の時代においても広く知られているようなブランド(例えば、ウールリッチやパタゴニアなど)であれば生産数もそこそこだっただろうから比較的同じようなものに出会える確立も高くなるし、価格もそこそこだったりする。
ただし、まったく同じは極めて稀で、年代が少し変わるにつれてディテールのデザインやタグが少し違うとか、当然サイズが違うとか、状態が違ったりと例を挙げると枚挙にいとまがないが、そういった細かいことが古着(ヴィンテージ)に差別化を与えスペシャルなモノへとかえてゆく。
そういったスペシャルなモノにもハイブランドのモノ同様に驚くべき価格が付けられていることもあるが、普通からしたら信じられないだろう。言ってもただの古着(ヴィンテージ)なのだから。
しかし、それとは逆に現存数の少ない服が辿ってきた史実を知れるといった歴史的価値がそのモノに込められているという意味で付けられている価格だとしたらどうだろうか?
もしかしたらそれは妥当な価格設定なのかもしれないと思えるのかもしれない。
ではその史実とはなにか、
-デザインの意図
-パターンの構造的意図
-染料の意図
-軍服の機能や柄、色などにおける背景の意図
これだけではないとおもうが、古い服には全てに必ず意味があるのだ。そこがおもしろかったりする。揺るがない服の歴史的価値があるということ、こういう事実からそれらの理由を知れることがその驚くべき価値に直結している、と僕は創り手として理解している。
そして、その人個人に訴えかける古着(ヴィンテージ)の価値とは、先に書いた以外にもその服の仕立てや服に付いているボタンやジッパーの付属品までにも影響が及んでくると思う。なにより僕自身がそうなのだ。
では、史実を知れたり現存数が少ないから価値があるのか
といえばそれだけじゃないことも理解している。
書いてきた価値観は創り手やコレクターや愛好家、古着(ヴィンテージ)を売ることを生業とするお店からすれば正にそうなのだが、そういう価値観は「そうではない人」たちからしたらただの疑問でしかないと思う。
「ボロボロなのに何で?!」
「古いのに何で?!」
そうだと思う。中学高校生くらいの時には僕もそういう考えだった。要するに、そういう価値観を全く持っていなかったからだ。
だからそういう価値観を必ずしも全員が共有できる訳ではない。
当然そういう価値観を意識しない人たちにとったら先に書いてきたような史実や現存数の影響でつけられた希少価値なんてものはハッキリ言って必要ないのだ。なぜなら、ただ自分の価値観で古着(ヴィンテージ)を買って着て楽しみたいわけで、史実や希少価値をを買うためじゃないからそう言ったモノに大枚はたけないのだ。
だから驚くべき価格が付けられている古着(ヴィンテージ)を見て触っても、その人の感性に訴えかけるなんらかの価値が無ければその古着(ヴィンテージ)はその人が見て触っている間、元々持っていた驚くべき価格の価値とういうものが一瞬だけ下落するかもしくは失うことになる。
逆もそうだ。
驚くべき価格が付けられていない古着(ヴィンテージ)であってもその人個人の感性に訴えかけるなんらかの価値があれば、驚くべき価格がついていないモノであってもその人にとってはれっきとした価値あるものへと姿を変えるのだ。
どんなに価値あるモノと熱心に謳われても、その人自身がそのモノに対しての事実を知らなかったり、興味がなかったりした場合、そのモノに感じる価値と価格のバランスが成立していなければその価値とは一体何なのか。と自分自身考えさせられる。
トップの写真はUS NAVYのデッキコートのステンシルの写真だ。
きっとデッキコートに興味がない人はこれを見てもその先を知りたいとは思わないはずで、そこに価値というものは見いだせないと思う。
もし興味がある人はきっとこの写真から全体像を調べたりするだろうし、もしくはもともと興味があって知っている人ならばいろいろ気になることが出てきて、その先をもう少し知りたくなるのかなと思うのだ。きっとそうなったとしたらあなたは少しでもこのデッキコートに価値を見い出せているのだろうと思う。
文章の下手さも相まって結局何が言いたかったかよくわからなくなったが、モノに付いている価値は見えているようで実は見えていないし、その価値の正解があるようでないのだ。だとしたら価値や史実や希少性に翻弄されるより、自分がイイと思える唯一無二の自分の価値観を信じて古着(ヴィンテージ)を手にすることを楽しんだほうがワクワクすることが多いのではないかとおもうのだ。
というかそれを楽しみたいのだ。
という話でした。
お粗末様でした。
ちなみに、デザイナーズモノについてはまた次回に書いてみようと企んでいます。