【1984年7月19日】阪急ブレーブス・蓑田浩二、所沢の梅雨空に「露と消えた」幻のホームラン



1984年のパシフィック・リーグ、西武と阪急の首位争い



1984年(昭和59年)の梅雨入りは6月10日ごろで、梅雨明けは7月22日であった。

関東地方でそろそろ梅雨も明けようかという7月19日、西武ライオンズ球場で西武ライオンズ阪急ブレーブスのナイトゲームが始まった。

広岡達郎率いる西武ライオンズは1982年、所沢に移転後、初のリーグ優勝を射止めると、日本シリーズで中日ドラゴンズを破り、前身の西鉄ライオンズ時代の1958年以来となる日本一に。
続く1983年も2年連続でリーグ優勝、そして読売ジャイアンツを破って日本シリーズ2連覇を成し遂げた。

1983年のシーズン、ベテランの域に達していた西武の主砲、田淵幸一が開幕からホームランを量産、チーム67試合で29本塁打を放っていた。
王貞治のシーズン55本塁打超えも期待されたが、直後の7月中旬に左手首に死球を受け骨折、シーズンの約2か月半を棒に振ってしまった。

それでも田淵は日本シリーズには間に合った。
田淵は第1戦で江川卓から3ラン本塁打、第5戦では日本シリーズで29イニング連続無失点中であった西本聖から本塁打を放つ活躍で、このシリーズの優秀選手賞を受賞した。

その反動なのか、1984年のシーズンの西武は田淵を含めたベテランの成績が低迷した。
特に田淵は序盤、通算1500安打を達成し、5月下旬までに二桁本塁打に到達するなど、まずまずであったが、次第に打棒が衰え、オールスターゲーム明けにはスタメンから名前が消えることが多くなった。
そして、その年のシーズン終盤、田淵は38歳の誕生日である9月24日、そのシーズン限りでの現役引退を発表した。
西武はまさに黄金時代が始まるかと思いきや、早くも世代交代の時期を迎えていた。

一方、上田利治監督率いる阪急ブレーブスは4月までは勝率5割を上回る程度であったが、5月に17勝5敗と大きな貯金をつくり、6月も7月も勝ち越しと、パ・リーグのペナントレースで頭一つ、抜け出した。

西武の高卒新人・渡辺久信、プロ初勝利を懸けて阪急戦に先発


1984年のオールスターゲームを控えた前半戦の最終戦となった7月19日、西武の広岡達朗監督は、首位・阪急に対して、先発に前年ドラフト1位の高卒新人、18歳の渡辺久信を起用した。
西武は首位・阪急との3連戦、2連敗を喫し、ゲーム差は11.5に開いていた。

渡辺久信は群馬・前橋工業のエースとして甲子園に出場したこともある、北関東ナンバーワンの投手であった。
速さのある直球とフォークボールが武器だった。
渡辺は6月29日、地元・西武ライオンズ球場での日本ハム戦にリリーフでプロ入り初登板を果たすと、7月5日、同じく西武球場でのロッテ戦でプロ初先発登板。
渡辺は8回までロッテ打線に5四球を与え、制球に苦しみながらも、被安打5、6奪三振、2失点に抑える好投を見せた。
しかし、2-2のまま降板したため、プロ初勝利はならなかった。

その次の先発登板となった7月11日の南海ホークス戦では5回持たず、3失点で降板したが、敗戦投手はまぬかれた。

そして、この日、渡辺にとってプロ3度目の先発となったが、初回から強力な阪急打線に立ち向かっていった。
渡辺は4回を終えて、1四球、無安打無失点に抑える。
だが、西武打線も阪急先発・佐藤義則の前に、走者を出すものの要所を抑えられて、渡辺を援護できない。
西武は4回、6番の片平晋作のタイムリー安打でついに先制点を挙げた。

ブーマーと蓑田浩二が渡辺久信に「プロの洗礼」


渡辺久信は勝利投手の権利がかかった5回、先頭の4番、ブーマー・ウェルズを迎える。
ブーマーはここまで打率.360、20本塁打、83打点と、打撃主要三部門でトップに立ち、NPB史上5人目(6度目)の三冠王に向けてひた走っていた。
ブーマーは強振すると、打球はセンターの芝生席に向かってグングンと伸びて行った。
阪急はチーム初ヒットがブーマーの同点ホームランとなり、試合は振り出しに戻った。
渡辺には手痛い「プロの洗礼」となった。

その後、佐藤も渡辺も互いに譲らず試合は7回へ。
渡辺は6回まで阪急打線を被安打2に抑えると、7回表、3番の蓑田浩二を迎えた。
前年、NPB史上4人目となる「トリプルスリー」を達成した蓑田もブーマーに負けず劣らず打撃好調で、ここまで打率.328、19本塁打は共にリーグ3位、67打点はリーグ2位と、ブーマーと共に首位を走る原動力となっていた。

しかも、この3連戦の2連勝は、蓑田のバットによってもたらされた決勝点であり、勝利打点はブーマーの11を凌いで、蓑田が14と勝利への貢献度は十分であった。
本塁打数でブーマーに2本差に離された蓑田は渡辺に対してここまで2打席ノーヒット。
しかし、蓑田も高卒の新人に3度、やられるわけにはいかない。
右打席の蓑田が振りぬいた打球はまたしても西武球場の外野芝生席へと消えて行った。
蓑田はリーグ2位タイとなる20号本塁打を放ち、2-1。阪急は再びリードした。
渡辺は阪急の主軸であるブーマーと蓑田浩二の二人にホームランを献上した。

所沢上空に、恵みの雨が

ところが、都心から少し離れた所沢にある、この球場の上空の天気は変わりやすい。
簑田がホームランを放った直後、この年の梅雨の去り際を惜しむように、西武球場の上空に振り出した雨は強くなった。
試合開始から1時間46分が経過したところで、審判団が試合中断を決めた。

そして、審判団は中断を宣告してからわずか14分後、再びグラウンドに姿を現すと「ゲームセット」を宣告した。
あっという間の出来事であった。

蓑田浩二は「幻のホームラン」、渡辺久信は「プロ初完投」


さて、この試合の勝負の行方はどうなったのか?

NPBにおける「コールドゲーム」の規定を見ると、こうなっている。
ホームチーム(後攻チーム)がリードするか、または同点で次のイニングに入りビジターチーム(先攻チーム)が同点、若しくは逆転に成功してもそのイニングの攻撃途中で打ち切りとなった場合は無効(但しホームチームがその回に再び同点、逆転した場合は記録成立)となる。
即ち、阪急の7回の攻撃は「なかったこと」にされるのである。

そして、蓑田が打った勝ち越しホームランは、梅雨の空に「露」と消え、試合も1-1の引き分けに終わった。

西武はもし7回裏の攻撃を0点で終えていた後にコールドゲームが宣告されていたら負けていたはずのこの試合、まさに「九死に一生」を得た。
簑田に決勝弾を浴びたにもかかわらず、突然の雨のおかげでプロ初敗戦をまぬかれた渡辺は、6回しか投げていないのに「プロ初完投」のおまけもついた。

試合後、広岡監督は記者団にリーグ2連覇から一転、リーグ5位に終わった前半戦の総括や今後の展望を尋ねられると、

「そんなことはいいじゃないですか。言う必要はない」

と憮然とした表情で答えた。

一方、3夜連続のヒーローになり損ねた蓑田もただただ悔しがるばかりであった。
そして、もし、ブーマーと蓑田のホームランを打つタイミングが逆なら、ブーマーの21号ホームランが幻となり、蓑田は20号ホームランを放ったことになり、ブーマーに並んでいた。

蓑田浩二、オールスターゲーム史上初の「サイクル安打」の行方は


蓑田浩二はその鬱憤を晴らすかのように、2日後、オールスターゲームに臨んだ。
梅雨明けが宣言された7月21日、後楽園球場で行われた第1戦、オール・パシフィックの外野手部門、ファン投票3位で選出された蓑田は、3番に座り、第2打席にヒット、第3打席には二塁打、第4打席にはヤクルトの梶間健一からレフトオーバーのホームランを放った。
第5打席目、三塁打を打てば、オールスターゲーム史上初のサイクル安打の可能性もあったが、中日の牛島和彦の前にセカンドフライに倒れた。

渡辺のほうはオールスターゲーム明け、7月29日、西宮球場での阪急戦で、プロ初勝利を目指して再び先発マウンドに上がったが、今度は2回途中までに被安打3、四球2、三振ゼロ、自責点2でマウンドを降りた。

結局、渡辺のプロ初勝利は、19歳を迎えて初めて先発マウンドに上がった8月18日、西武球場での対ロッテオリオンズ戦で、序盤の大量リードに守られ、9回を被安打5、7奪三振で2失点に抑えた。今度こそ、正真正銘の「プロ初完投勝利」であった。

1984年、蓑田浩二とブーマー、阪急主軸の「明暗」



ところで、阪急の二人の主軸はどうなったのか。
蓑田浩二はオールスターゲーム以降、梅雨が明けたにもかかわらず、バットが湿りがちとなった。
後半戦、チーム48試合で簑田は打率.198、たったの7本塁打、21打点に終わり、結局、終わってみれば26本塁打、88打点で、打率も.280にまで下降した。

一方のブーマー・ウェルズは最終的に打率.355、37本塁打、130打点でNPB史上5人目(6度目)、外国人選手初となる三冠王を獲得した。

阪急の上田利治監督は自身の第一次政権以来となる、6年ぶりのリーグ優勝を果たし、シーズンMVPは文句なしでブーマーが選出された(日本シリーズでは阪急は広島カープの前に3勝4敗で敗れた)。

この年、簑田とブーマーの明暗を分けたのは、所沢の梅雨空に露と消えた1本のホームランがきっかけだったのかもしれない。


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