石井茂雄/岸孝之が破った「パ・リーグ最年長の無四球完封勝利記録」保持者


やっと、この投手にスポットライトを当てるべき時が来た。

7月13日、楽天生命パーク宮城での楽天対西武戦で、楽天先発の岸孝之が9回を投げ切り、被安打3、2奪三振、無四球、無失点で、完封勝利を挙げた。

岸は今季、プロ18年目で、39歳7か月での完封勝利は、パシフィック・リーグでは、毎日オリオンズの若林忠志(42歳8か月)、オリックス・ブルーウェーブの佐藤義則(40歳11か月)、ロッテオリオンズの村田兆治(40歳10か月、40歳7か月)に次いで史上5位タイとなる年長記録である。

さらに「無四球完封勝利」となると、1978年5月3日、平和台球場でのクラウンライターライオンズ対日本ハムファイターズ戦で、クラウン先発の石井茂雄が記録した38歳11カ月を抜いて最年長記録となった。


なお、無四球完封勝利のNPB最年長記録は、東京ヤクルトスワローズの石川雅規の44歳4か月(2024年6月2日、対楽天戦、5回コールド)、9回完封勝利だと中日ドラゴンズの山本昌の41歳1カ月(2006年9月16日、対阪神タイガース戦、ノーヒットノーラン)となっている。

石井茂雄はサイドスローの右腕で、プロ22年、通算705試合に登板し、通算189勝を挙げているものの、名球会の入会基準である200勝に届かなかったせいか、あまり知名度は高くない。

だが、石井茂雄の通算登板数705試合はNPB歴代16位投球回数3168も歴代21位勝利数189も歴代28位であり、まぎれもなく、昭和のプロ野球、パ・リーグを代表する大投手であった。

石井茂雄のキャリアを振り返ってみよう。



石井茂雄、高校中退で阪急ブレーブスへ、22歳で開幕投手に抜擢

石井茂雄は1939年5月6日、岡山県生まれで、岡山県立勝山高校の定時制を中退して、1957年、阪急ブレーブス入りした。
1958年8月7日、対近鉄パールズ戦で一軍初登板を果たす。
ただし、一軍初勝利はプロ4年目の1960年、7月3日、対近鉄バファロー戦まで待たなければならなかった。
プロ5年目を終えて、わずか3勝にもかかわらず、米田哲也梶本隆夫らを押しのけて1962年の開幕投手に抜擢された。
この年、自己最多の47試合に登板、うち19試合で先発したが、4勝に終わった。

パ・リーグ史上10人目の「2年連続シーズン20勝」、3年で66勝


阪急の監督に西本幸雄が就任した1963年、米田、梶本が不振の中、石井は先発の柱とリリーフで49試合に登板、チームトップの17勝(17敗)、初めて規定投球回に到達して、防御率2.92で、リーグ9位に入った。

石井は翌1964年も、チームトップの63試合に登板、うち先発は33試合に登板、またクローザーのような役割も果たし、パ・リーグでは東京オリオンズの小山正明の30勝に次いで、リーグ2位の28勝をマーク、前年最下位のチームを2位に押し上げる原動力となった。

石井は翌1965年も先発・リリーフで21勝を挙げ、東映フライヤーズの尾崎行雄に最多勝を譲ったものの、パ・リーグ史上12人目の「2年連続シーズン20勝」をマーク、同僚の米田哲也(20勝)と併せて「同一チームで20勝コンビ」となったが、チームは4位どまりだった。
この時期が石井にとって投手としてのピークで、その後は米田哲也、足立光宏、山田久志らの後塵を拝するようになった。

阪急のリーグ初優勝、3連覇に貢献も、日本シリーズで勝利なし

1967年には西本幸雄監督の下、阪急ブレーブスとして球団創設初となるリーグ優勝を経験し、自身は5年連続となるシーズン二桁勝利を逃して、9勝4敗ながら、パ・リーグの最高勝率のタイトルを獲得した。
自身初の日本シリーズは巨人との闘いとなり、第1戦と第6戦にリリーフ登板したが、巨人に敗れ去った。
1968年にはNPB45人目となる通算100勝をマーク、11勝を挙げて、阪急のリーグ2連覇に貢献。
巨人と再戦となった日本シリーズ第1戦に自身初の先発を果たしたが、勝ち負けはつかず、第4戦は同点の6回からロングリリーフしたが、9回に長嶋茂雄に決勝タイムリーを許し、その後、第5戦・第6戦もリリーフ登板したが、日本一は遠かった。

1969年も12勝を挙げ、阪急のリーグ3連覇に貢献、日本シリーズで三たび、巨人と激突、2年連続で初戦を任されたが、3回2失点で代打を送られ、第3戦、第6戦はリリーフに廻ったが、3年連続で王者・巨人に敗れ去った。

1970年はチームトップタイの16勝を挙げたが、チームは4位に沈んだ。1971年はチームは2年ぶりのリーグ優勝を収めたが、自身は先発ローテーションの谷間で7勝を挙げるにとどまり、日本シリーズでも第4戦にリリーフしただけだった。
パ・リーグ2連覇の1972年には18試合に先発して、5勝を挙げ、阪急では当時、米田哲也梶本隆夫に次ぎ歴代3位となる自身通算143勝を積みあげたが、巨人との5度目の日本シリーズでは登板機会が1度もなかった。

福岡・太平洋クラブライオンズへ金銭トレードで移籍、通算150勝

1972年オフ、稲尾和久率いる西鉄ライオンズが太平洋クラブに球団売却され、太平洋クラブライオンズとなると、石井は金銭トレードで移籍した。

ライオンズは1969年の「黒い霧事件」によって投手力が弱体化しており、33歳の石井は経験豊富な先発投手として再び復活した。

1973年はNPB史上23人目となる通算150勝、3年ぶり8度目となる二桁勝利に到達、東尾修に次ぐチーム2位の12勝を挙げた。
その後も、先発投手としてシーズン20試合程度はコンスタントにローテーションの一角を守った。

1978年も39歳にして19試合に先発するなど気を吐き、5勝8敗ながら、うち完封勝利が3度、無四球試合も4度、記録するなど、ハマった時の老獪なピッチングは健在だった。
サイドスローから打ち気にはやる打者に人を食ったようなスローボールを投じて翻弄したという。

パ・リーグ最年長(当時)となる38歳11か月で「無四球完封勝利」

1978年5月3日、平和台球場でのクラウンライターライオンズ対日本ハムファイターズ戦では、9回を投げ切り、被安打6、奪三振3、無四球、無失点に抑え、石井は38歳11か月で、パ・リーグ史上最年長となる「無四球完封勝利」を挙げた。

https://2689web.com/1978/FL/FL3.html

同じ1978年6月11日、大阪球場での南海ホークス戦では被安打7を浴びたが、南海の4番・門田博光をノーヒットに封じ、奪三振0、四球2個、無失点に抑え、39歳1か月でシーズン3度目の完封勝利を挙げている(自身最後の完封勝利)。

石井は太平洋クラブ、クラウンライターと6年間の在籍で44勝を挙げたが、1978年オフに、クラウンライターが西武鉄道にライオンズを譲渡、埼玉・所沢に移転するタイミングで、戦力外通告を受けた。


長嶋巨人にテスト生で入団、「空白の1日」が追い風に

石井はプロ生活22年間で、通算695試合に登板、187勝を積み上げていた。

すでに40歳近くなっていたが、まだまだやれる自信はあった。

古巣・阪急の西本幸雄監督の後押しもあり、長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツの入団テストを受けることになり、39歳で「練習生」となった。

石井にとって幸運だったのは、巨人が「空白の1日」によるドラフト会議のボイコットで、新戦力が薄かったことだった。
阪神から移籍の新人・江川卓は「空白の1日」によるペナルティにより開幕から2か月の出場停止、他の戦力はドラフト外で入団した新人の鹿取義隆と石井のみだった。

開幕直後に「現役選手登録」、史上8人目の通算700試合登板に到達

そして、1979年の開幕直後の4月4日、石井はついに現役選手登録され、巨人の背番号「37」のユニフォームに袖を通すことになった。
4月11日には甲子園での阪神タイガース戦、巨人の投手として初のマウンドを踏むと、4月15日の大洋ホエールズ戦(横浜スタジアム)では移籍後初先発、4月30日のヤクルトスワローズ戦(神宮球場)では7回途中まで無失点の好投で移籍後初、通算188勝目となる勝利を手にした。
5月6日に40歳を迎えると、5月19日の広島カープ戦(後楽園球場)では8回を3失点に抑え、シーズン2勝目、通算189勝目となる勝利を挙げた。
6月21日の大洋戦(横浜スタジアム)、先発した2回途中でノックアウトされたが、6月23日、甲子園での阪神タイガース戦で2番手としてマウンドに上がり、ついにNPB史上8人目となる700試合登板を達成した。

その後は江川卓西本聖藤城和明らの台頭もあり出番が減り、1979年のシーズンは15試合の登板で2勝2敗、防御率3.69という成績で、その年のオフの12月13日、巨人を自由契約となり、現役を引退した。

NPB歴代16位の通算705試合登板、189勝185敗

石井茂雄は当時、NPB史上16人目となる通算200勝まであと11と迫っており、達成すれば、若林忠志の39歳8か月を破り、最年長での通算200勝達成であったが、その夢はかなわなかった。

石井茂雄の通算投手成績は以下の通りである。

・登板数:705試合(16位)
・先発数:417(17位)
・勝利数:189勝(28位)
・敗戦数:185敗(12位)
・完投数:134(37位)
・投球回数:3168回(21位)
・完封数:29(31位)
・対戦打者数:13117(21位)
・被安打数:3081(14位)
・被本塁打数:309(20位)

石井が阪急で挙げた通算143勝は、チーム歴代7位である。

通算3000投球回以上の投手で与四球率は11位


また、石井のキャリア通算四球数は777個で、1試合(9イニング)当たり2.21個と非常に少く、通算投球回数3000以上の投手の中では、11位である。



石井は現役引退後、現役の後半を過ごした福岡に戻り、飲食店を経営したが、2005年、65歳で亡くなった。

余談だが、石井は「母の日」の登板では9勝0敗と無敗だったという。









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