【1986年12月23日】「有言実行」落合博満、ロッテの命運を変えた「2年連続三冠王」と「稲尾和久との絆」



1985年、31歳の落合博満、2度目の三冠王を獲得

1985年のシーズン、ロッテオリオンズの主砲、31歳の落合博満はプロ6年目にして最高のシーズンを迎えていた。
チーム全試合の130試合に出場し、打率.367、52本塁打、146打点。
1982年のシーズン以来、3年ぶり2度目となる三冠王に輝いた。

シーズン最終戦で放った52号本塁打は、1963年に野村克也(南海)がつくったパ・リーグのシーズン最多本塁打記録と並ぶもので、146打点はパ・リーグ新記録、打率.360超えも当時、右打者では2008年の内川聖一(.378、横浜)に抜かれるまでNPB史上最高、という文句のつけようがない数字であった。

開幕前に落合博満、稲尾和久監督に「三冠王」獲得宣言



しかも、驚くべきことに、落合博満はシーズン開幕前に監督の稲尾和久に「今年、三冠王を獲る」と公言していた。
落合は稲尾がロッテの監督に就任して以来、投手、そして野球人としての稲尾を尊敬し、プライベートでも親交が深かった。
落合は後年、

「野球を教わった監督は山内一弘さんと稲尾さんだけ」

と振り返るほどだった。
一方の稲尾もまた落合のバットマンとしての矜持と力量を尊重した。
落合が不振に陥った時も4番から外さず、監督として落合に全幅の信頼を置いていた。

そして、落合は稲尾に「もし三冠王を獲ったら、パーティーを開いてください」と「お願い」をした。
稲尾もさすがにこの時は「まだシーズンも始まっていないのに・・・」と呆れたという。
しかし、そのシーズン、落合は見事に稲尾監督との「約束」を叶えてみせた。

東芝の府中工場の臨時工からロッテにドラフト3位で入団、契約金2700万円・年俸360万円でスタートした落合の年俸はこのオフ、9700万円。
前年の年俸5940万円から63%アップ、プロ入り7年で年俸は実に27倍となった。
1985年当時、サラリーマンの平均月収は24万円、年収に直すと約280万円。
落合はバット1本でサラリーマンの平均年収の34倍、すなわち生涯年収にも匹敵するような額をたった1年で稼ぐようになっていた。

1986年の落合博満、シーズン前から「2年連続三冠王」獲りを宣言



さらに翌1986年も、シーズン前から落合は「三冠王」獲りを公言した。
2月の春季キャンプイン直後、落合はテレビカメラの前でこう尋ねられた。


「(2年連続の)三冠王は獲れますね?」
「うん、獲ります。大丈夫です。獲らなきゃ面白くない。
人の上に立てるのはそれしかないんだから」

落合は自らに言い聞かせるように、真剣な表情で語った。

いざ開幕してみると、落合は4月終了時点(チーム15試合)では打率.228、4本塁打と不振を極めた。
だが、5月終了時点(同34試合)では打率.339、9本塁打と持ち直し、6月終了時点(同51試合)では打率.348、17本塁打と、着実に成績を積み上げていった。

落合はオールスターゲーム明け、チーム65試合終了時点となる7月25日の阪急戦(西宮)で26号、27号本塁打を放った。
王貞治の55本塁打ペースに迫る勢いとなった。
7月はオールスターゲーム休みを挟みながら19試合で11本塁打を放ち、7月終了時点(チーム70試合)では打率.350、28本塁打とまさに無双状態となった。

ただ、落合には厄介なライバルたちがいた。
落合の2年連続三冠王に立ちはだかったのは、阪急のブーマー・ウェルズと西武の秋山幸二である。
ブーマーは来日4年目の1984年に、NPB外国人選手初の三冠王に輝いている。
秋山は前年、高卒入団5年目にして自身初の全試合出場を果たし、シーズン40号に到達、西武の主軸へと成長していた。

落合博満、ブーマー・秋山幸二と争いながら、2年連続三冠王へ邁進



ブーマーは6月後半に本塁打数では落合に抜かれたが、打率は3割5分台を維持していた。
6月終了時点で、落合はまだブーマーを追いかける立場であった。
7月、落合も打率を3割5分に乗せ、7月終了時点では落合はブーマーの打率を抜いた。
8月にはブーマーが再び、打率を上げ、落合を抜き返した。
しかも、8月末時点でブーマーと落合の打率の差は、.367と.341で2分6厘も離れた。

一方、西武の秋山幸二は6月終了時点までは打率.327、20本塁打で本塁打王争いでは落合をリードしていたが、7月に大失速、わずか3本塁打に終わって、落合、ブーマーとの争いから脱落したかに思われた。
しかしながら、秋山は8月に再び、12本塁打を放って息を吹き返した。
8月終了時点で、落合と秋山は共に35本塁打で並んだ。

西武は高卒ルーキーの清原和博と秋山のバットに引っ張られ、8月後半に10連勝(引き分け2試合を含む)をマークして、2年連続のリーグ優勝を大きく引き寄せた。

8月末時点で、落合がいるロッテは残り試合、40試合を切っていた。

落合、本塁打・打率の二冠浮上で「三冠王の確率は99%」と言い放つ

ところが、9月に入り、落合は猛チャージを掛けた。
一方、首位打者を争うブーマー、本塁打と打点を争う秋山は勢いに陰りが見え始めた。
9月29日の阪急戦(川崎)で、落合はブーマーの目の前で43号ソロホームランを放つと、3安打の固め打ちでついに打率でもブーマーを捉えた。
ブーマーの打率.356に対し、落合は.358とわずかに上回ったのである。

さらにこの時点で、打点部門では秋山幸二がトップを走っていたが、落合は7打点差の2位。
しかし、試合後、落合は事もなくこう言い放った。

「三冠王の確率は99%。怖いのはケガだけだよ」

まるでブーマーと秋山は眼中にない、そう言いたげだった。

その翌日9月30日にも落合は、5打数1安打のブーマーを後目に44号ソロホームランを放った。
9月、落合は9本塁打を放ったのに対し、秋山は5本塁打。二人の差は4本に開いた。
9月を終え、ロッテの残り試合は19試合となった。

落合、10月に入りラストスパート、秋山との本塁打王争いを制す



10月に入り、落合は本塁打も量産体制に入った。
最初の8試合で5本塁打と固め打ち。
特に10月7日、本拠地・川崎球場での西武戦では秋山の目の前で47号・48号を放ち、秋山も落合の目の前で41号を放ったが、本塁打争いは7本差となった。
秋山の西武は残り3試合となったため、ここでほぼ勝負あった。

さらにロッテは10月8日から、首位・西武の本拠地・西武球場での3連戦に臨んだ。
西武はリーグ優勝を懸けた最後の3連戦。
初戦、落合は西武先発の東尾修と対戦し、3打席で2四球とノーヒット、しかも、終盤の守備で判定を不服として塁審をこづき退場処分となった。
翌10月9日の試合、西武先発の左腕・工藤公康にロッテ打線は6安打完封勝利に封じられ、ライバルの秋山も3安打・3打点と意地を見せると、落合は2打数ノーヒット、しかも、目の前でリーグ優勝を決められた。
翌10月10日、初回、落合は西武先発の成田幸洋から先制の2ランホームランでついに49号を放った(試合は清原和博のサヨナラ安打で西武が勝利)。
これで落合はNPB史上初の2年連続シーズン50本塁打に「王手」を掛けた。
秋山は2年連続の40号超えとなる41本塁打、この時点でリーグトップの115打点で全日程を終えた。

落合、NPB史上初の2年連続シーズン50号本塁打、そして打撃三部門トップへ



10月12日、ロッテは本拠地・川崎球場で日本ハムを迎え、落合は新記録を懸けて試合に臨んだ。
川崎球場に集まった観衆は8000人。
落合は5回にタイムリー安打を放ったものの、4打数1安打、1打点に終わり、ホームランは不発に終わった。
打点部門のライバルである秋山幸二は10月10日に全日程終了、115打点でシーズンを終えており、この時点で落合は111打点と秋山に4点差と迫った。

ロッテの残り試合はあと9試合。
落合の2年連続となる「シーズン50本塁打」と「三冠王」のダブル達成は10月13日の南海戦から始まる本拠地9連戦に持ち越された。

しかしながら、落合の新記録を見たさに川崎球場に集まったファンは思いのほか、少なかった。
10月13日の南海戦は3回途中、雷雨が激しくなりノーゲームとなった。
その翌日、10月14日の南海戦に集まった観衆は2000人。

ロッテ先発の深沢恵雄は初回、南海打線に2点を失う立ち上がりだった。
一方、南海の先発は右腕の山内和宏
「山内トリオ」の一角としてエースナンバー「18」を背負い、1983年には18勝を挙げて最多勝のタイトルも獲得、前年まで4年連続二桁勝利を挙げていた。
この年もシーズンを通して先発ローテーションを守ってきたが、防御率は3点台後半ながら、チームの低迷もあり、8勝14敗と大きく負け越していた。
その山内にロッテ打線が初回から襲い掛かった。
1番・西村徳文がヒット、2番・横田真がタイムリー二塁打で1点を返すと、ノーアウト二塁という場面で、3番・落合に打順が廻った。
このシーズン、落合は山内和宏を14打数11安打、打率.786、4本塁打と打ち込んでいた。

落合は右打席に入り、いつものようにバットをホームベースに大きくかぶさるようにして斜めに構えた。
人呼んで「神主打法」と言われたが、神主というよりは、さながら侍の立ち姿のようだ。
山内和宏は落合の身体に向かって内角に投げ込んだ。
もしかしたら、山内は落合の内角をえぐってボールにしようとしたのかもしれないし、ストレートがシュート回転したのかもしれない。
だが、相手投手の決め球を狙い、かつ、内角球をさばくことに天才的な落合には通用しなかった。
落合が左足を開いて振りぬいたバットから放たれた放物線は、ほぼ無人のレフトスタンド上段に到達した。
あの王貞治ですらなしえなかった、NPBでは前人未到の2年連続シーズン50本塁打。
MLBでも、あのベーブ・ルースだけが唯一、2度、達成したのみである。

この試合、落合は3打数3安打5打点と3打席連続で打点を挙げ、途中で退いた。
この時点で落合の打率は.364にまで上昇し、一方、ライバルのブーマーがこの日、日本ハム戦で4打数0安打。打率を.352に下げた。
試合後、ブーマーは肩を落としながら、

「もう仕方がないね。来年またがんばるよ」

と、落合に対して事実上の「白旗」を宣言した。

さらに落合はこの日の5打点で、秋山の115打点を抜きトップに立った。
落合はチーム122試合にして、「公約」通り、打率、本塁打、打点の3部門でトップとなったのである。

「三冠王確実」の落合に稲尾監督が・・・



翌日16日は、13日にノーゲームとなった南海戦の振り替えもあり、ダブルヘッダーとなった。
試合直前、ロッテの稲尾和久監督は落合を呼び寄せた。
落合に欠場を勧めたのである。

落合の打棒にも関わらず、稲尾が率いるロッテは10月に2度の3連敗を喫したことが響き、4位以下、Bクラスが確定となった。
稲尾は落合に「若手を起用したい」と告げた。

前述の通り、落合は稲尾が監督に就任した直後から、野球人としての稲尾を信頼していた。
落合は稲尾の言葉に従った。

落合は、

「チームのAクラス入りがかかっているなどの状況であれば別だが、それもないし、若手に経験を積ませた方がチームのため。(本塁打)55本も周りが期待するだけさ」

と素っ気なく言い放った。
後に、落合は自伝の中で「シーズン55本塁打は翌年、狙えばいいと思った」と述懐している。

落合とブーマーとの打率の差は1分2厘。
阪急の残り試合は3試合だけ。しかも、すべてロッテ戦。
いざとなれば、ロッテベンチはブーマーと勝負しないという選択もできた。
だが、稲尾は落合の欠場を選択したのである。

10月17日、ロッテ対阪急戦、渦中の落合はまた先発メンバーを外れた。
一方、ブーマーは「3番・ファースト」で先発出場したが、ロッテ先発、井辺康二の前に3打数ノーヒットに終わり、打率が.350まで下がったところで試合途中で退いた。
落合は代打ですら登場しなかった。

翌日10月18日の土曜日、広島市民球場では広島対西武の日本シリーズ第1戦の幕が切って落とされた。
だが、遠く離れた川崎球場ではロッテ対阪急のダブルヘッダー2試合が組まれていた。

第1試合は落合、ブーマーともに先発を外れた。
落合は代打で登場したが凡退に終わった。
第2試合、ブーマーはやはり欠場、落合は「4番・ファースト」で先発に復帰した。
2打数ノーヒット、2四球。

ブーマーが所属する阪急はこの試合で全日程終了となり、落合の「三冠王」が事実上、確定した。
あとは、1963年に野村克也、前年に落合自身がつくったパ・リーグタイ記録となる52本塁打を更新するかどうか。
落合にとってチャンスはあと2試合、翌日の日本ハムとのダブルヘッダーとなった。

翌10月19日の日曜日、広島での日本シリーズ第2戦を後目に、ロッテ対日本ハムとのダブルヘッダー第1試合が始まっていた。
しかし、川崎球場のスコアボードに落合の名前は無かった。
ブーマーに打率で抜かれる心配がないにもかかわらずである。
ロッテが1-2と1点ビハンドで迎えた9回、落合は代打で登場したが、日本ハム先発の金沢に四球で歩かされた(金沢はこの試合、1失点完投勝利を挙げたが、唯一の四球だった)。

第2試合は「ミスター・オリオンズ」こと有藤通世の引退試合となった。
有藤はオリオンズ一筋、1985年にはパ・リーグの大卒選手としては初めて2000安打に到達して名球会入りを果たした。
長らくサードのレギュラーを張ってきたが、晩年は外野に廻るようになり、代わってサードのレギュラーになったのが落合であった。

落合は「4番・サード」を有藤に譲り、「5番・ファースト」で先発出場したが、4打席で2打数ノーヒット、2四球に終わった。
有藤は第1打席、痛烈なセンター前ヒットを放ち、有終の美を飾った。

そして、この試合が終わった瞬間、オリオンズ一筋18年、通算2057安打、348本塁打、1061打点の有藤通世が静かにバットを置く一方、落合博満は自身3度目となる「三冠王」を手中にした。
5度目の首位打者、そして、3度目の本塁打王、打点王を同時に獲得したのである。

「疲れました。(腰や首筋痛に悩まされながら)よくここまできたというのが実感」
「三冠王は引退するまで何度でも狙うよ」

セ・パで2年連続三冠王が誕生


なお、1986年のシーズンは、セ・リーグでも阪神のランディ・バースが打率.389、47本塁打、109打点でやはり2年連続での三冠王を手にした。
特に打率.389はNPBシーズン最高打率である。

実はこの年、NPBではストライクゾーンの変更があった。
野球規則によると、ストライクゾーンの高低は「上限が打者の肩上部とユニホームのズボン上部との中間ライン、下限がひざ頭の下部ライン」となっている。
しかし、当時のNPBの試合では、実際のストライクゾーンは上限がベルト辺りにまで下がっていたため、規則通り、ボール2、3個分(15-20センチ)上限が高くなるように是正したのである。
要するに、ルールブック通りにストライクゾーンを適用したものだが、これによって、投手が有利となり、両リーグの打者は前年のシーズンと比べ、三振数が500個以上も増えた。
しかし、終わってみれば、落合とバースには無関係であった。

「三冠王・落合」、「ニュースステーション」生出演



落合は2年連続、3度目の三冠王が確定した翌日の月曜の夜、テレビ朝日の「ニュースステーション」に生出演した。

2年連続の三冠王を手にしたばかりで、キャスターの久米宏の軽妙な進行もあってか、スタジオでの落合はいつも以上に饒舌で、舌も滑らかであった。
鋭く切り込んでくる久米に、落合はさらに斜め上を行く受け答えを返した。
久米も落合を焚きつける。

久米「落合さん、トレードの噂がありますが・・・」
落合「毎年のことです」
久米「巨人が来季、どうしても優勝したいと。そのために落合さんに来てもらうために、幾らでも払うという記事が出てるんですが」
落合「巨人だけじゃないでしょ。他の球団もやっぱ、欲しいでしょうね」
久米「(苦笑)」
落合「商売するのは僕じゃなくて球団ですから。球団が僕を要らないとなれば、出すでしょうし・・・野球やるならどこでやるのも一緒でしょ?ルール変わるわけじゃないし」
久米「でも、三冠王を獲った選手をトレードするなんてありえませんよね?常識的に考えて」
落合「うん、僕が(ロッテ球団の)社長・オーナーだったら(トレードは)やんないですね」
久米「(爆笑)来年はどうしますか?三冠王を獲れますか?」
落合「はい、狙います。獲ります」
落合「3年連続三冠王を獲れる(可能性がある)のは、(ランディ・)バースと僕しかいないんで。狙わなきゃ男じゃないでしょ」

こうなると、落合の発言はもはやビッグマウスを通り越して、来季、3年連続の三冠王を本気で狙っているし、獲れるかもしれない、と誰しもが信じかねないほどの「実績」と「自信」を、落合はテレビのブラウン管を通して、野球界と野球ファンに突きつけた。

ロッテに激震、そして師走の球界に激震走る



ところが、その数日後、ロッテに激震が走った。
10月24日、落合が師と仰ぐ稲尾和久監督が3年契約の満了を理由に、ロッテ球団から事実上の「解任」を言い渡されたからである。
かつて西鉄ライオンズのエースであった稲尾は将来、オリオンズの本拠地を九州に移転することを念頭に、ロッテの監督を引き受けた経緯もあったが、その公約も反故にされつあり、稲尾自身の情熱も消えつつあった。

これに黙っていなかったのは落合である。
オフに開催されたファン向けのイベントで、落合は、

「稲尾さんがいないのなら、自分がロッテにいる理由はない」

とまで言い切った。

そして、ロッテフロントの稲尾に対する処遇に不満を持った落合は公然と球団を批判、その発言はメディアにも取り上げられ、落合も否定しなかった。

「オレは稲尾さんと〝3年のうちに優勝させる〟と約束した。その約束をまだはたせていない」

球団と落合は直接、話し合いの場を持ち、一旦は沈静化したかに思われた。
稲尾の後任監督には、現役を引退したばかりの「ミスター・オリオンズ」、有藤通世が指名された。

しかし、年の瀬にさらなる激震が球界を襲う。
12月23日にロッテオリオンズと中日ドラゴンズが、中日の牛島和彦上川誠二平沼定晴桑田茂の4選手と、落合を交換トレードすると発表したのだ。

ロッテフロントは32歳の「三冠王」を放出するという前代未聞の決断を下したのである。

実は落合は球団に対し、50%アップの年俸1億5000万円を要求していた。
それに対して球団フロントは落合の年俸を1億2000万円に抑えようとしていた。
それまでもロッテフロントは落合の年俸高騰を抑え込んできたが、落合も公私ともに「師」と仰ぐ稲尾の存在があったから我慢してきた。
だが、「稲尾解任」でタガが外れた落合に球団も匙を投げた格好となった。

そして12月26日、落合は移籍先の中日で契約更改に臨み、推定年俸1億3000万円でサインした。
落合はついにNPBの日本人選手として初の年俸1億円プレーヤーとなったのである。


落合博満、NPB日本人選手初の年俸1億円突破、そしてセ・リーグ移籍の「代償」

1987年のシーズン、中日に移籍した落合は打率.331、28本塁打、85打点。
打撃タイトルは3年ぶりに無冠に終わった。
並みの選手、いや一流の選手でも申し分のない成績だが、「三冠王」獲得を公言する落合にしてみれば、自他ともに物足りない数字に終わった。
落合は「野球はどこでやるのも一緒」と言ったが、やはり、セ・リーグの投手たちと対峙することから、リーグ移籍の影響は少なからずあったとみるのが妥当だ。

そして、落合は2年連続でシーズン50本塁打を放った時、「シーズン55本塁打は翌年、狙えばいいと思った」と振り返ったが、セ・リーグでそれに挑むチャンスはついに訪れなかった。
移籍3年目の1989年にシーズン40本塁打をマークしたが、それがセ・リーグでの自己最多だった。
落合はセ・リーグに移り、中日在籍時には打点王2度、本塁打王2度、1990年には本塁打と打点王の二冠を獲得したが、ついに首位打者のタイトルは獲得できず(打率は1990年に古田敦也に次いで2位となったのが最高)、両リーグでの三冠王の夢は潰えた。

ロッテ、「落合放出」の代償



一方、落合が去ったロッテは有藤が監督を務めた1987年からの3年間、5位・6位・6位と低迷した。2年連続の最下位は球団史上初の屈辱となった。
ロッテの球団フロントは攻撃力を強化すべく新外国人野手の補強を相次いで図ったが、落合が抜けた穴を誰も埋めることはできなかった。
落合の年俸を抑え込もうとして放出したことが仇となった。

さらに不幸なことに、有藤は1988年、伝説となった川崎球場での「10・19」で、監督として審判の判定に猛抗議、試合が中断した結果、近鉄のリーグ優勝のチャンスを奪ってしまった監督として記憶されるようになった。

有藤が去った後、後継の監督には再び、「天皇」金田正一に白羽の矢が立てられた。
だが、金田は最初の監督就任2年目の1974年にリーグ優勝・日本一を成し遂げており、フロントもファンも「夢よもう一度」を願った。
確かに、金田の復帰はパ・リーグを大いに盛り上げ、ロッテの観客動員数も1991年にようやく100万人を超えたが、1990年は5位、1991年は6位とやはりチームを浮上させることはできず、退任を余儀なくされた。
1991年を最後にロッテは川崎球場を後にし、1992年のシーズンから新本拠地・千葉の幕張へと移ることになる。
同時に、チーム名も「ロッテオリオンズ」から「千葉ロッテマリーンズ」へ変更された。

もし、落合博満がロッテに残って、主砲を張っていたら・・・
3年連続の三冠王、シーズン55号本塁打の記録更新はあったのか。
もし、稲尾和久が監督を続投していたら・・・
落合の手による稲尾監督の胴上げはあったのか。

落合博満と稲尾和久の強すぎる「絆」は皮肉にも、ロッテの命運、そして、落合自身の野球人生も変えてしまったようでならない。

落合は自らの野球人生が変わったことより、この手で稲尾を胴上げできなかったことが心残りなのだと思う。

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