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父の手づくり弁当
母は正規保育士として定年退職まで35年以上勤めた。退職前の数年は園長でありコロナ禍による葛藤や苦悩も大きかったはずだ。
それでも園児や保護者、家族の前で明るく笑顔であった母を私は心から尊敬している。
そんな母であったが、35年のキャリアのなかで「仕事を辞めたい」と父に漏らしたことがある。重い肺炎を患い入院した時のことだ。
当時の私は3歳。記憶はほとんどない。
体調を崩し「仕事を続ける自信がない」と言う母に父は「これから家事を積極的に行う」と約束したそうだ。
言葉どおり、その日からわが家の台所担当は父となった。まさにバトンが渡された瞬間だった。
それまで、ほとんどキッチンに立つことのなかった父。しかし継続とは侮れないものである。朝晩の食事準備を毎日続けるうちに、その腕前は相当なものになった。
私が小学生の頃。
家族ぐるみで交流のあった友人家族を招いて頻繁に食事会をしていた。その時の父の張り切りはとにかく凄かった。
得意なのは中華。
麻婆豆腐、棒棒鶏、おこげの五目あんかけに春巻き、卵とコーンのスープ……。まるでコース料理のような豪華さに周りは驚いた。
「青空さん、すごいね! シェフみたい」
そう言われると嬉しくて、父はますます料理に夢中になっていく。
私と妹の学生時代の弁当も、父が毎日作っていた。同級生から「ちくわちゃんのお弁当いつも美味しそう」と言われ「父が作ってる」と言っては褒められるので、私も嬉しかった。
それを報告すれば、父はとても喜んで「今日のお弁当については、お友達に何か言われた?」と頻繁に聞いてくるようになった。「今日は特に何も」と返事すれば「今度また聞いておいて」と言う。
いやいや。
高校生が「今日のうちの弁当どう思う?」なんて聞くことはない。そう思ったが、言わないでおいた。
娘たちの弁当を毎日張り切って作る父だったが、母のために作る弁当はもっとすごい。母への愛で溢れ出ているのだ。
母は遠足へ引率のため、年に1回お弁当を持って行く。愛妻家の父にとって、弁当を通して母へ愛を伝える大チャンスなのである。
数日前から「お弁当のメニュー、もう考えちゃったもんね~」なんて嬉しそうに語り出し、前日はいつもに増してしっかりと仕込みをした。
当日の朝、母がリビングへ来ると「まだダメ。着いてからのお楽しみだから」と弁当をサッと隠す。
しかし、そんな様子をよそに母は特にコメントせず、テキパキと準備を進める。
ドンマイ父。
遠足の朝は父の一人芝居で始まるのが、わが家のお決まりの風景だった。
そして昼。
家族のグループLINEに母から弁当の写真が届く。私と妹は「いや~、今回も凄いな!!」と思わず笑ってしまうのだ。
「美味しかった? みんな、何か言ってた?」と父から瞬時に返信が届く。
「『園長先生のお弁当、遠足なのに運動会みたい』と子ども達が言ってたよ」と母からメッセージがきた。
子ども達の言葉に私と妹は納得する。
そう。1人で食べる量ではないのだ。
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とはいえ、なんだかんだ言いながら、母も私たち娘も愛情詰まった父の手づくり弁当が大好きだった。
私と妹が社会人になっても父は弁当を作ってくれた。当時は父も自身の分を弁当箱に詰めて職場に持って行っていた。
そして時は流れ。
私も妹も結婚して実家を離れた。父がお弁当を作る機会は母の遠足の年1回のみ。
「自分のお弁当は作らないの?」と聞けば「自分のためだと作る気が起きない」とのこと。父らしい。
そしてついに母は60歳で定年退職を迎えた。料理長のバトンが父から母へと戻ってきたのである。
その後は母が台所を担当している。
実家へ帰省した時、父に「趣味の料理をしなくなって物足りなくないの?」と聞いてみた。
すると父は「仕事から帰ると母さんがご飯を作って待っていてくれて、まるで新婚時代に戻ったみたい。夢のよう」と嬉しそうに話していた。
なるほど。
ご馳走様。
結婚して実家を離れてからも「久しぶりに父の弁当食べたいな」と私はふと思うことがある。妹にその話をしたら、同じことを感じていたそうだ。
でも今後、父の弁当を食べる機会はなかなかやってこないだろう。
そう思っていた。
ことが動いたのは昨年。
お盆帰省の時のことだった。
私と妹夫婦で実家のテーブルを囲み昼食をとっていると唐突に「年末はお節を作るから。みんな楽しみにしていてくれ」と父が言いだしたのだ。
続けて母が「そう。お父さん、お節のレシピ色々調べたり、材料をネットで注文したりしてて……」と言う。
もう一度おさらいしておこう。
この話が出たのはお盆だ。
8月の暑い日、父は既に年末のお節の準備に取り掛かっていたのである。
「これは凄いものが出来そうだ」と、誰もが思った。食べたいと思っていた父の弁当が今度はお節になる。私と妹は楽しみでこっそり目を合わせた。
そして迎えたお正月。
長い準備期間を経て、父のお節は完成した。数の子、黒豆、子持ち昆布以外は父が手づくりしたそうだ。
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「低温調理したローストビーフを詰め忘れた」と父は激しく後悔していたが、もう入る隙間など全くない。
父の初挑戦したお節は、見た目もさることながら味も絶品だった。「美味しい美味しい」と言う家族の顔を見て、ニコニコ笑う父。
特に孫(私の子)の「じぃじ、金柑もっと食べたい」という言葉が嬉しかったようで、その後、帰省する度に金柑の甘露煮を用意してくれていた。
そして数カ月後。
母からLINEが届く。
「父さん、ついに金柑の木を買ったよ」しかも2本。と。
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次回のお節には、自分で育てた金柑で甘露煮を作るそうだ。そのうち、数の子を獲りに漁に出るかもしれない。
父母のキャリアの変遷とともに、その都度、料理長を交代してきたわが家。
かつてあまり料理をしなかった父は朝晩のご飯を作り、弁当を作り、ついにはお節まで作るようになった。
現在は再雇用で働く父も1年後には退職となる。その時がくれば、実家ではどんな調理体制になるのだろう。
また、今までフルタイムで働き続けた父と母は平日昼間、2人の時間をどう過ごすのだろうか。
先日帰省した時「何かやりたいことはあるの?」と父に聞くと「近くに貸し出し農園があれば小さなスペースで畑をしたい」と言った。
実に父らしい。
退職後は父と母が順番で料理を作り合うのかもしれない。夫婦2人になった食卓に、自分の育てた野菜で作った料理を並べ、母にふるまう父の笑顔が浮かんだ。
そして、みんなが集まる帰省の時には、これまで通り、張り切って腕をふるうのだろう。
今年も間もなく正月がやってくる。
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