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ピッカピカの特別支援学校一年生(来年)

うちの息子、福太郎はなんと来年ピッカピカの一年生となる。
嘘でしょう?
4週間くらい前に生まれたばっかりじゃなかった?
体感としてはそのくらい、振り返るとあっという間の6年間であった。

うちの子はダウン症をもって生まれてきた。
彼らは普通の子と比べると成長がゆっくりなのだが、ことうちの福太郎に関してはダウン症の子の中でもとりわけゆったりペースで成長しているようだ。

7月に6歳になったのだが、感覚としては彼はまだ2歳児くらい、それも発達ゆっくり目の2歳児くらいの印象だ。

とか適当に書いてみたが、私は息子一人しか子育て経験がなく、普通の2歳児の発達レベルのことを全然知らないことに気付いたので、今ネットで「2歳児 何が出来る」で検索してみたら、2歳児のレベルにも達していない部分が多くあることが明らかになってしまった。危ない危ない、図らずもnoteで見栄をはってしまうところだった。

なぜ2歳児レベルだ、など適当なことを言ったのかというと、今の福太郎の様子がおそらく子育て界隈で良く言われる「魔の2歳児」「イヤイヤ期」に該当しているのではないかと思っているためだ。
もしくは単に第一次反抗期か。

私の反骨精神を色濃く受け継いでいるため、彼は相当に頑固で誇り高い魂をお持ちで、時になかなかに手を焼く。

しかしながら、一流のアスリートは総じて頑固だと言われるように、長じて何かを成し遂げた素晴らしき人物たちこそ、きっと何かしら幼少期には手ごわい部分があり、その部分を上手に活かし、時に上手に抑制をすることを学ぶことで大人物となったに違いない。

福太郎は素材としては申し分がない(親バカ)。
この素晴らしき手ごわい部分を長所として活かせるように育てなければな、と夫と二人模索する日々だ。(悪い方に伸びちゃったら大変ですしおすし)

話がズレたがそんな2歳児の福太郎(正しくは6歳児)が来年から小学生になる。
というわけで、来年入学予定の小学校を親子3人で見学に行ってきた。

一対一の面談形式だと思い込んでいたのだが着いたら我々家族のほかに数組の親子が勢ぞろいしていて、え?そっち?そういうやつ!?と慌てて「集団の中の私モード」にギアを切り替えた。
「集団の中の私モード」は万事控えめ、上品度を上げた振る舞いとなる。
息子のために一生懸命先生の話を聞きながらも一方で「あらあのお母さん素敵ね」と周囲から思われているんじゃないかという雑念が消えない私は本当にあほ可愛い。

さて支援学校の先生曰く、近年は親御さんが入学を希望されていたとしても障害の程度が軽いと判断された場合は学校のキャパシティ不足で受け入れられないパターンが非常に多いのだという。

見渡してみると、今日の見学会に集まった子供の大半は一見してどこに問題を抱えているのか分からない。

しかし、ここに集う子供たちは一見全く問題ないように見えても入学を許される程度には生きずらい問題を抱えているのだろう。

特別支援学校のキャパシティ不足、これは、昔は個人の個性だと見過ごされていた発達障害や自閉症などがすくい上げられるようになり、対象児童の分母が増えたたことが大いに関連していると思う。

私は、個性の範疇に収まる凸凹までも障害のラベルを貼ることには反対だが、しかし、その凸凹によって本人が明らかに生きずらさを抱えているような場合は別だ。

人生の早い時期からその特性を周囲が自覚し適切にフォローしていくことで、子供の後の人生が大きく変わっていく可能性があるのだから、子供、もしくは自分にそのような傾向があると知ること自体は基本的には良いことなのだろうと思う。

福太郎が入学予定のこの学校も、入学希望の子供を一人でも多く受け入れるために運動場にたくさんのプレハブを建てるという形で対応していた。
子供の減少を憂いている我が国でここだけ昭和のマンモス校の様相を呈していた。

教室は一クラス6人程度の少人数の児童に先生が3人ついて下さるのだという。手厚いフォローに親としてはもはや五体投地の心境である。
休み時間の教室を覗くと、それぞれ個別の特性を抱えた子供たちが明るい表情でのびのびと過ごしている様子が見受けられ安堵した。

学校の施設を見学して回る際、福太郎は抱っこをせがむことなく見事に自分の足で歩いて回った。我が息子もきっと「よそいきお利巧モード」を発動していたのだろう。
休み時間の一年生の教室を覗いてみると、ダウン症の子が、涼しい顔で自分で水筒からコップにお茶を注ぎ飲んでいる姿を見て私と夫は愕然とした。

出来ない出来ない!あと半年で出来るようになる気もしない!

つい同じ「ダウン症児」というくくりで見て比べてしまいそうになるが、発達の速さ、知的障害の程度だけでなく、それぞれ持って生まれた性質、個性などは、ダウン症児も健常児と何ら変わりなく、みんな違っていて、一人として同じ子はいないのだという至極当たり前なことに再度気付かされた学校見学会だった。

他人と比べて幸せを計ることほど無意味なことはないが、一つだけ確かなのは、幸せを感じる感度が高いほうが絶対に良いということだ。

自分として生まれた以上他人がいかに羨ましくとも、他人の人生を生きることは出来ない。
それなら自分の日常に隠されている様々な喜びや楽しみを誰よりも上手に見つけ出せる子になってほしい。

私が日々福太郎と向き合って、一生懸命彼とやっていることがあるとすれば、それは教育でも養育でも療育でもなくて、そういうことなんだろうな、なんて思った。

人はみな、結局「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ」という真理から人生を出発せざるを得ない。
スヌーピー先輩渋すぎ。

配られたカードの中でたくさんの幸せを感じつつ生きていくのもよし、配られたカードを全部ひっくり返し自らの足で遠くへ行くもよし、福太郎はどんな人生を歩んでいくのかな。



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たいたい
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