結婚相手に求めるもの「尊敬」の正体について
結婚相手に求めるものの筆頭として挙げられる「尊敬できる」という点であるが、正直に言うとこれまで私はあまり重視していなかった。
自分が間違っている時には彼に正しい道に導いてほしいなどと言う方もいらっしゃるようだが、そんなこと一度も求めたことがなかった。
伴侶は伴侶だ。
教師や牧師を求めているわけではない。
夫婦二人で切磋琢磨し合い人間的に成長し、高みを目指したいなんて気持ちも更々ない。
高みってそもそもどこだよ。
誤解を恐れずに言うなら私が伴侶に求めるものはただただ愛情、この一点に尽きる。
それがもしかしたら一番難しいのかもしれないが。
松崎しげるも言っている。
この世に大切なものは愛し合うことだけだと。(引き続き昭和歌謡にどっぷりと浸かっている)
私は野村のさっちゃんになりたい。
間違いなんて正してもらわなくて結構!
夫婦で切磋琢磨とか成長し合うだとか、勘弁してほしい。
そういうものは外の世界で嫌というほど、本当に嫌というほど強いられるものだから、せめて家の中ではお互いをぐずぐずに甘やかし合いたい。
定量的な観点みたいなつまらんものはお行儀悪く裸足で外に蹴っ飛ばして、ひたすらに定性的な関係性でいたい。
「私が脱税で捕まっても味方でいてくれる?」
「世界中が敵になっても俺だけは味方だよ」
みたいな。
とまあ、大げさに言うとそんな風に思ってきた。
誇張しているのであしからず。
ところがつい先日、やはり夫婦関係において「尊敬」という観点はある程度必要なものなのかもしれないと思いなおす小さな出来事があった。
ご存じの方もいらっしゃるが、私の夫はとある試験に合格するために勉強を続けている。
「もっと勉強しなよ!」等の小言を言わないように意図的に彼が勉強している姿を見ないようにしているのだが、そうすると時々ふと「こいつはほんとに勉強してるんかいな?」という疑いの気持ちが芽生えてしまい、結局どうするのが正解なのか分からずじまいなのだが、先日雑談をしている時に夫の口から何やら難しそうな法律用語が飛び出て来て非常に驚いた。
ああ、この人少なくともこの単語を覚えて、私に簡単な説明が出来る程度にはきちんと勉強していたんだという安堵と謎の感動。
自分が知らない法律関係の仕組みを知る男、これが私の夫。
つまり久しく忘れていた夫への小さな尊敬の気持ちが湧き出てきたのだ。
自分が苦手なことを楽々出来る。
とか、
自分が知らないことを知っている。
とか、
そういうなんてことない小さなことから生じる小さな尊敬の気持ち。
相手を尊敬する気持ちが、相手を尊重することに繋がり、それが結果的に夫婦関係によい影響をもたらす。
相手に対する小さな尊敬は、愛情という感情を強く補強してくれるものだったようだ。
なるほど、世間様が結婚相手に必要なものだと口を揃えておっしゃるわけだ。
愛があればいい。
そこに相手に対する尊敬が加われば愛はきっともっと美しい形で長持ちする気がする。
ついでに金があればもっといい。
人の欲は尽きないものだ。
私が将来脱税で捕まる日が来たとしても、夫には世界で唯一の味方であり続けてほしい。(脱税してません)