人生はドライブだ。…と運転できない私が言ってみる。
今日も終わりかけているが、3/21は「世界ダウン症の日」である。
ダウン症をもって生まれた人は、21番目の染色体が3本ある。
それで3/21。
何を隠そう(別に隠してないが)私の3歳の息子もダウン症をもって産まれて来た。
毎年3/21には夫とともに「息子!今日は世界ダウン症の日だよ~!おめでとう!」と言った後、ん?おめでたくはないか…と思うのが恒例となっている。
そんな私たち夫婦だが、出産後告知を受けたときは人並みにショックも受け、大泣きに泣いた。
しかしゲオでレンタルした漫画で現実逃避しているうちに、気が付くと目の前の小さな我が子の異常な可愛さにメロメロになっていた。
ちなみに現実逃避期間は2週間、読んでいた漫画はフラジャイルだった(ほんとに読みたかった漫画は貸し出し中だった)
不思議なものだよなぁとつくづく思う。
ダウン症の人は何か欠けているのではなく、むしろ一つ多いのだ。
現代において人が子供を産む数は、〇〇さん家の大家族的な例外は除き、1人~3人が主流だろう。
つまり、人生で自分の子供を育てるということはどこまでも限られた体験であるということだ。
両親の組み合わせ、両親それぞれの性格、子供の性別、性格、育成環境、諸々の組み合わせはどこまでいってもたった一つ。
私と夫の組み合わせのもと授かった子は目の前の我が子であり、私がこの手で育てられるのも愛を注ぐことが出来るのもこの子以外ありえないのだ。
どこまでいってもオリジナルでどこまでいっても極めて特別だ。
この事実は私に何とも言えない幸せな感情を呼び起す。
私のたった一度のこの人生で授かったたった一人の息子。
どこにもない組み合わせ、どこを探してもここにしかいない私の子供。
私の息子はダウン症のため、普通の子供に比べて成長が超絶ゆっくりである。でも、人の子供と比べる意味ってあるのだろうか。
だって私の子供はこの子であって他の子供ではないんだから。
私にとっては自分の子供の成長スピードが自分にとってのノーマルでありそれで正解なのだ。
優れてる、とか劣ってるという話ではない。
ただ単に「そう」なのだ。
他の子と比べたり将来のことで不安に心を曇らせ今に集中できないのはもったいない。
今この瞬間、息子が向けてくれる何の憂いも屈託もない笑顔に胸をときめかせること以上に大事なことはない気がする。
人と比べる必要はないと気づいた時、生き方は突然シンプルになった。
自分の近くにいる人たちを大切に、自分の人生に集中すればいいのだ。
ペーパードライバーの私が言うのもなんだが、人生はドライブに似ている。
他の車ばかり見てよそ見していると事故を起こしてしまうのでご注意を。
自分の運転に集中し、視野を広く持ち危険やリスクに備える。
あとは同じ車に乗り合わせたメンバーと楽しく行先に向かうのみ。
ドライブは大好きだ。
ドライブの真の楽しさは、目的地に着くことではなく、目的地に着くまでの過ごし方にあると思う。
まだ子供が小さいからそんなことが言えるんだよって言われるかな。
多分今後いろんな悩みが出てくるに違いない。
でも、悩みや苦しみ、心配事のない子育てってこの世にないよね。
健常児を持つ親の苦しみともしかしたら種類は違うかもしれない。でもそれは単なるバリエーションだ。
きっとそこにも優劣はなく、ただただ「そう」なのだ。
たった一度の自分の人生で授かったたった一人の息子と人生を一緒に歩いていく。(夫もねw今ケンカしてるけど)
子供を持つ持たない、結婚するしない、そういうもの全てに優劣はない。
同じものは一つとしてない特別で唯一の人生をみんなが歩んでいる。
そして時々関わり合い、傷つけあったり労わり合ったりしながら化学反応を起こしている。
そう考えると、自分の人生も、他人の人生も、それぞれすごく貴重なもののように感じる。
あれ?何話しているんだっけ。
こんなことを書いていたら隣の部屋で今ウトウトしているであろう息子に会いたくなってきた。
ちなみに寝かしつけは私の役目だが先日夫と大喧嘩して「子育ての一切は俺がやる!」と豪語した夫が昨日から寝かしつけをやっている。
毎日寝かしつけしている時はしんどいなと思うのに、いざやらなくていいと言われたら息子の隣で寝たくて仕方なくなるのはアルアルだろうか?
ともかく私の愛する息子が、今日こそは健やかに朝まで眠ってくれますように…。