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人生にはただ意味がある

現実世界に挫けてしまうと、つい過去の美しい思い出の中に逃げ込みたくなる。
過ぎ去った思い出は、いつまでも永遠に美しい。その事実が私をいつも安心させる。

なんの責任も、立場もなく、幼い子どものような無邪気さで過ごしたあの時間はもう2度と帰ってこないけれど。

自由に身軽に、何ものにも囚われずに生きていけたらいいのに、そう願っても歳を重ねるごとに重たい荷物が増えていく。

いらない荷物と大切な荷物は複雑に入り組んでいて、いつまでも明確に整理できないまま、どれもごっちゃに抱え込んで生きていく。

絶対に手放したくない大切な荷物も多いけど、宝物でさえ時にはその重さが弱った私を苦しめる。

現実は、時折、とても重い。

荷物を力いっぱい抱え込んでいるうちに、要らないものと大切なものは少しずつ混じり合い、もはや分別は不可能となった。

それらは人生の不純物だとも言えるし、味わいだとも言える。

私は幸と不幸が複雑に絡み合ったこの人生を愛している。

それでも、時々不意に打ちのめされてしまうことがある。

そんなとき、神様からの祝福を感じたあの日に舞い戻る。
自由で、無垢で、若かった、あの宝石箱の中のような日々に。

日常の細々とした雑事から完全に切り離され、毎日が遠足の前日みたいな日々だった。

脈絡なく始まるティータイムに、深夜に思い立って作るクレープ、とろりとした甘いお酒、トランプゲームに夜が明けるまで続くおしゃべり。

無防備で純度の高い、互いへの好意。

何度か喧嘩もしたけれど、あまりにも全てがうまく行きすぎていて、それ故にたぶん二人ともはっきりと、気づいていた。

これが長く続いていく類のものではないということ。

私の人生に用意されていた、ごくごく短い祝福の時間。完璧で完全な祝祭日。

終焉の影が濃いからこそ幸福の眩さはより強く、甘かった。

現実の落とし穴の思わぬ深みにすっぽり嵌ってしまった時、私は普段は鍵をかけて閉まっているその宝箱をそっと開く。
やっと息ができる。

美しい思い出に何度救われたかわからない。

私にはお気に入りのティーカップがある。
ティーカップの柄には、私の旧姓に関するモチーフと、美しい思い出をともにした彼を象徴するモチーフが隠れている。

私だけの秘密だ。

へこたれた時は、そのティーカップを取り出しお茶をいれる。

小さな裏切りと背徳感を飲み下す。
甘いような、ちょっぴり苦いような。

誰だったか、こんなことを言っていた。

人生には幸も不幸もない。
ただ意味がある。

私はまだこの言葉の意味を、本当には理解できていない。
いつか理解できる日が来るだろうか。





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たいたい
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