うつうつからぼちぼちまでの変化
抑うつ状態に「しんど」と思い、このままではダメだと思ったのが三年前。予防的に医療を頼ろうと泣きついて通院開始したのが二年半前。その時は休みながらも働けはするし、まあ早めに受診に繋がった自分えらい、と思っていたけど、今冷静に振り返るとなかなかヤバイ状態で踏ん張っていたと思う。薬を飲んでも状態は悪化し、「あ、死ぬしか考えられん。これはヤバイ。休ませてくれ。」と懇願して一ヶ月休職したのが去年の夏。
復帰しても辛かったし、なんとかできることを模索しながらめちゃくちゃ休みながらとりあえず仕事をこなす毎日だったけど、今年の1月なかばからふとスイッチが切り替わってだんだんラクになってきた。
働きながら休みながら、未だに体調は万全ではないけれど、「うわー!今までと全然ちがうじゃん!同じ症状があっても生きられる!なにこれ、全然違うじゃん!」と密かに感動しながら暮らしている今を残しておきたいなあ、と思ったのでここに記します。
身体(うつうつ期)
私は身体性障害・抑うつ状態と診断された通り、身体への表れ方が大きかった。頭痛、微熱、手足のしびれ、インフルエンザのような筋肉関節痛。
・身体の至る所に症状がでる。しんどい。
・症状うんぬんというか全体的にしんどい。
・頭おもい、うごかない。
・身体おもい、うごかない。
・症状を列挙しようと思えばできるが、どこがというか全体的にしんどい。終わってる。
・どれだけ身体がしんどくても寝られない。眠剤を飲んで寝たけど途中で起きた。起きるたびに携帯で時間を確認する。
・朝、やっぱり辛い。寝た気がしない。昨夜中途覚醒した回数を思い出して「やっぱり寝られてないな。調子悪い。」と納得して、調子が悪いという客観的事実を見つけられると何故かホッとする。
思考(うつうつ期)
基本的に自分がどうしたいかとか、そういう主体的な思考はゼロ。ただただその時の辛さに絶望する。いろいろ考えていたし、その時なりの思考の足跡を振り返ると「それも私の考えだなあ」と思うので、考えること自体はしていた。たくさん。悩んだ。あとは基本的に「無」だった。
・朝からそもそもしんどい。
・「あー」とか「………」が脳内主言語。
・仕事に行かなければという考えはあるが、全体的にパワーが足りず「あ…え…あ…(無理…)」という言葉にならない絶望感と対峙する。
・結局休んだ。罪悪感すら生まれない。つらい。
・流れるニュースを見てることに意味はない。身体がソファにあって、目がそこに向いてるから。
・そのわりにテレビのちょっとした情報が、理由もわからず心をえぐる。うっ。あ、しんどい。
・休んで冷静に考えてみたら、今日は仕事にいけたような気がする。サボりぐせ?と自責。
・なんでこんな、つらい、えーつらい。
・気持ち悪いと思ったらなにも食べてない。空腹による気持ち悪い。だがしかしソファから立ち上がり食べ物を用意すれば食べられるという思考回路が生まれず、「食べてないな、気持ち悪いな、誰か来て全部回復する点滴とか打ってくれないかな。」と思いながら何もしない。
・寝るわけでもなく、起きれてたならやっぱりなにかできたのでは?なにもできないなんて。なにもできないなんて。なぜ今私はこんな…以下永遠
・タバコが切れた。買いに行くか。着替えるために寝室に行く。服を選べず、棒立ちし、何もせずソファに戻る。
一年くらい前の記録と休職した時の記録。
身体(ぼちぼち期)
症状を症状と捉えられる。「症状がない部分」ができてきたからかもしれない。
・気圧や疲労で、吐き気や頭痛がする。
・頭痛を「頭いたくなってきたな」という症状で捉えられる。だから薬を飲んで対処する。
・吐き気を「調子悪くて気持ち悪いな」と捉えられる。だから薬を飲んで、小休憩をとる。
・疲れた時は「あー疲れた」と認識できる。
・疲れを持ち越さないためにお風呂に浸かろうと思える(お風呂に入って寝れば少しは身体がラクになるという信頼感が持てた)。
・疲れたら寝られる。寝られないと思っていても寝られる。寝れなくても横になっていればまあいいでしょう、とそんなに不安視しない。
・起きるのが辛い時は、疲れがたまっているのかもなあ、と思える。起きれない=疲労
・「つらい、ダメな日か…ダメだ…」という漠然とした調子の悪さに帰結しない。
思考(ぼちぼち期)
いまだにあんまり欲求は戻ってこないけど、とても普通に平凡に日常生活を送るための、現実的な思考回路が戻ってきた気がする。
・疲れた、調子悪い、を事実として認識する。
・→なら少し休むか、ご飯の前に横になろう
・思考が自分で認識できる言葉になる。
・考えがぐるぐるしない。
・単純に目の前のことに焦点を当てて考えられる。「お腹すいた。ご飯は作ろうかな、買おうかな、疲れてるから簡単なものでいいかな。」「今日は疲れた。まあ働いてるしな。帰ったらゆっくりしよう。」「帰ったら夫の調子が悪かった。今は私もあんまり余裕ないなあ。ただいまだけちゃんといって、少し休んで自分の調子がよかったら話を聞こう。」「あ、え、君やっぱり調子悪い?よし、話を聞こう。でも省エネモードで。」
・なんで、どうして、なにが、という、着地点のない、考えてる風に装ってグルグル辛さを増産する思考が減った。
・脳内で思考ができる。あーなったらこう、これはここがよくないかも、こうしてみるか。これはダメだな諦めよう。仕事って思考が必要でした。
最近の記録。
まとめ
ぼちぼち期を過ごせるようになって、うつうつ期に初手で詰んでいたことが普通にこなせることにびっくりする。考えようとしていることが同じだったとしても、うつを抜けて論理的に思考できると冷静に判断ができる。「あ、私いま考えられてる!」と思う。
うつうつ期は「今目の前の現象」をそのまま捉えて現実的に現実に落とし込むことがとてつもなく難しかったように思う。「しんど」「なんだっけ」「つら」に遮られてしまうのもある。一番大きな違いは、うつうつ期は「今目の前の現象」を題材にしながら、目の前にない過去や未来、聞いて確認したわけでもない他人の思考や世間、どこから降ってきたかも分からない自分の確固たる絶望的な理念など、あらぬ方向にどんどんと思考が逸れて別のメインテーマを作り出す。そして手に負えなくなり考えることをやめる。
考えてる風沼。その考えも自分の考えに間違いはないのだけど、どこかでぴょーんと目の前以外のことにアクセスしすぎてしまう気がする。
なんでこんなこともできないんだ、ともがき苦しんだあの経験があるからこそ気づいたけど、ぶっちゃけできるときはできるし、できないときはできない。なんか回路が違う。
あの人の方が大変な仕事とかしてて辛そうなのに、眠れないとか言ってて症状も同じなのに、なんであの人はできてわたしにはできないんだろう、私がやっぱり悪いのかもしれない、とか思うけど、症状は症状でしかない。
私も未だに症状はある。うつうつ期と同じ症状。
あの人ができているのは、症状はあるけれどそれを冷静に症状として捉えて「つらいけどやるしかないな」と思考できて、「やらねばならぬ」というやる気を保てるだけのエネルギーがあるからかもしれない(「ねばならぬ」思考で踏ん張り続けることはたしかにできるけど、それもとうとうできなくなる段階がある)。
絶対よくなるとか、いつかそのうちこうなるとか、確約のない無責任なことを言いたいんじゃない。だけど、うつうつとぼちぼちは、結構ちいさな当たり前のことでも大きな違いがある。人間が普通に生活するための仕組みが、うまく機能しなくなっている。
それは症状の大きさや頻度、定量的なもので測れるものではないと思う。すっごく辛い症状があっても、仕組みが上手に動いていれば、キャパの範囲で耐えたり踏ん張ったり休んだり、そういうことができたりする。できないときもあるけど。
誰かと比べられるものではないし、比べるべきものではないと思う。自分が辛いときは、そういうどうしようもない状態も存在するんだよ、っていうことを、頭のどこかで覚えておきたい。