オススメ小説「言壺」著:神林長平【感想】
【オススメ小説】
タイトル:言壺
著者:神林 長平
出版社:中央公論社
あらすじ・概要
様々な文章入力補助装置とそれを使用する人々を中心とした、「言葉」を題材とした短編連作作品。
複数の話で登場する「ワーカム」と呼ばれる装置は、文章の入力において校正だけでなく文章作成そのものを補助するAI付の入力ソフトのようなもの。シチュエーション、登場人物などの概要を入力すればそれを基に小説を書きあげてくれるし、使用するうちに使用者の癖を覚えて「あなたならこのような文章を書きたいのでは?」といった提案もしてくる。
世界規模で普及しており文章作成時はほぼ使用されている。尚、作中では「手書き」が廃れており「ワーカム」で入力しなければ商品として発売されず、手書きの紙媒体の本はほぼ無いに等しい。
”綺文”
作家の解良は「私を生んだのは姉だった」という分をワーカムに入力できずにいた。ワーカムに拒否された文を様々な方法で入力しようと試みる。
"似負文"
作家の水谷は謎の男のもとへ連れられる。匂いを使って記述された作品を差し出し男はこう伝える。「これは未来のあなたの作品です」
"栽培文"
人が言葉を封印し、記述することも発声することもなくなった未来。人は言葉ポットで言葉を栽培することで意志疎通を行っていた。言葉の木を切る樵の父とその娘の物語。
etc…
”綺文”について
”綺文”において解良は、ただ「姉」という単語のみが異なる意味を持つ言語空間の物語を書こうとする。通常の言語空間で理解しようとすると言語中枢が働かなくなるような物語だ。「私を生んだのは姉だった」という文章は私たちにとっては「なんか変な文章だな」で済んでしまう、もしくは理解せずに済ませることが出来る。
しかし、ワーカムはそうは行かない、変だなと流すことも理解を放棄することも出来ない。機械ゆえに正しくその文章を受け入れることしか許されない、だから入力自体を拒否した。もし受け入れてしまったら、姉が理解できなくなる。それだけでなく姉と弟の関係性、連鎖的に母や父との関係性すべてが崩れ芋づる式に途方もない数の単語が意味や意義を見失う。やがてはワーカムの言語空間が崩れる。
作中では産まれた時からワーカムが存在する世代が存在する。自ら文章を考える習慣がなく、ワーカムなくして言語コミュニケーションが困難な世代だ。彼らにとっては「ワーカム=自らの言語空間」となってしまっていて、個人単体では情報伝達に足る言語を組み立てが出来ないのだ。
つまり、ワーカムの言語空間の崩壊は彼らの言語空間の崩壊と同義になってしまう。解良の友人で技術者である古屋はその点を指摘しており、この文章はワーカムに連なる言語空間を破壊する可能性がありとても危険だと言う。それでも解良はあきらめず様々な方法で入力を試み続けそして……
※言語空間は物質世界を「言葉」に変換し「意味」付けし「感情」と結び三者を共鳴させることで「認識」する、というプロセスを行う脳内空間だと自分は考え以下の文章を続けます。
上記の世代を現代に置き換えるなら、生まれた時から携帯がある世代に近いだろう。最近の入力アプリはなかなか便利なもので、予測変換や入力履歴の利用などにより文章によっては最初の1単語を打つだけで次々と入力アプリのサジェスト欄に言葉が現れ、その機能だけ文章が完成する場合すらある。
文章を入力する際の補助があることが前提となってしまった人は、はたしてその前提が狂ってしまった時にそのことに気付くことが出来るのだろうか。
人は個人ごとの言語空間を持っているし、そのことを大多数の人は理解している。しかしSNSなどの場では、相手が知らないであろうネットスラングや略語等をさも当然のように使用してしまう人がいる。ネタや冗談としてではなく、本気で伝わると思って使用していて、相手がその言葉を知らないなんて考えてもいない。
ある種の閉鎖環境上で言語が先鋭化し、その言葉を使うような人しか集まらない空間で過ごすうちに、あたかもその先鋭化した言語空間をその空間以外の人も共有していると勘違しまっているのだ。だから、いち集団内で生まれたその場でしか通用しない言葉を別の集団持ち出す。
また、漢字の誤変換、或いは言葉の意味を誤って使用しているが正しいものと信じて使っている人が増えてきているように思える(あまり人のことは言えないが)。多様な場で誤用が広がり続けた結果、正しい使用方法が間違いであるかのような扱いを受けることすらある。
もしかしたら「集団おけるの言語空間=自分の言語空間」となっていて、その言葉を疑うことは自らの言葉を疑うことと同義となってしまうから無意識に疑うことを避けているのだろうか。
ならば悪意を持って、間違った言葉をSNSなどで広めれば「SNSの言語空間=自らの言語空間」となっている人達の言葉を崩壊とは行かなくとも歪めることは十分に可能なのではないか、そして歪んだ言葉で会話をすることによりSNSの言語空間に属していない人達の言葉すら間接的に歪めることもできてしまうのでは、と考えてしまう。
言葉が揺らげばそれに連なる意味と認識も揺ぐ、それを続ければもしかしたらある日突然すべてが崩壊なんてこともあり得るかもしれない。
"栽培文"について
"栽培文"では印象的なセリフで「言葉は気持ちを表現できても、言葉に気持ちを封じ込めることは出来ない」というようなものがあり、「意思から出た言葉はそこにあるだけで言葉自体に気持ちはない」と続く。想いがこもった言葉はその瞬間の本人だけのものであり他人にそのすべてを知ることは出来ない。そして、いずれは本人もその言葉からその時の気持ちを思い出せなくなる。
だからこそ、気持ちのこもった言葉は大切であり尊い。完璧に表現できなくとも、完全に伝えることは出来なくとも人は言葉に気持ちを込め、少しでも長く留めるために文章として自分や他人へ残す。素敵なことのようにも思えるが、言葉という存在にどこまでも縛られている。
人は言葉により意味を理解する、言い換えれば現実を理解するために言葉を用いる。桜の木を見たとき「桜」の「木」が「有る」という意味を持つ言葉の連続によりその景色を理解するのだ。
言葉より先に理解が来ることはないく感情ですら言葉で定義されている。「綺麗」「美しい」という感情も、言葉になって初めてこの世界へ出てくる。言葉にならない感情は文字通り「言葉」に出来ないゆえ他者へ伝えることが出来ず、世界へ出ることなく当人の中だけで完結する。
他者と共有できる個人認識の世界は、各々が持つ言語空間により形づくられる。「蛾」に対してAが「怖い」「汚い」と意味づける空間を持ち、Bが「美しい」「変化」と意味づける空間を持つとき、互いに異なる認識をしていると理解はできてもその認識を共有は出来ない。また、AとBがそれぞれ「綺麗」と意味づけたとしても果たしてその「綺麗」は同じ「綺麗」であることはない。綺麗に紐づく感情や連想される他の言葉すべてが一致することなどありえないのだ。
最後に――まとめ的な何か――
人が言葉で何かを伝えようとする行為は、お菓子作りに似ていると思う。自分の「感情」をクッキー生地のようにこね回して「言葉」という型でくり抜く、「意味」でデコレートしてその時の「認識」で焼き上げるのだ。むろん味覚は人によるのでどう感じるかはその人次第で、食べる際に零れ落ちるかもしれない。
零れ落ちた部分は相手が汲み取り切れなかった認識の不一致、そして型ぬき後の余った生地は言葉にできなかった感情や言葉に収めきれなかった意味とも言える。もしかしたら、この余った部分を「言葉の余韻」とか「行間を読む」などと表現しているのかもしれない。
人は言葉を作り出したがそれはもう過去の話。現代の人は既に言葉がある環境に生まれ無から言葉を生み出すことはできない。新たな言葉を作るときも既存の言葉の影響を受けざるを得ない。
例えば生まれた時から目も見えず耳も聞こえず発声もできない人なら言葉に代わる新しい伝達方法を作ることが可能かもしれない(それをどうやって他人に伝えるかは想像できないが)。もしかしたら、他人が言葉を発した振動が触覚に影響を与えるから完璧に言葉の影響を受けない「無」からというのはやっぱり無理かもしれない。言葉は人にとって製法を再現できないオーパーツと化しているのではないか?
人の手に負えないモノによって危機に陥る……なんて物語でよくある展開にはならないように祈るばかり。
言葉を題材にひたすら言葉の持つ力や可能性について書かれる、果たして人は言葉を使っているのか使わされているのか……人によっては若干ホラー。最後の一文を書いたのが『誰/何』なのかどちらとも取れるようになっている気がしますが、現実世界ではどちらがその立場になるのだろうか。
読み終わった後は、言葉を書いたり言ったりする時にふと立ち止まって考える機会を貰えるそんな一冊です。