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「指導」から「伴走」へ
ある日の職員室での雑談で、教職員が気になる子どものことを話していました。
「自分たちがあたたかく問いかけながらその子に寄り添っているのに、本当のことを語ってくれない。ところが、その子は校長室に入るなり、『オレ、友だちの物とって、先生にはウソついているから困っている。どうしたらいい?』と自分から語る。自分たちと校長の違いは何なのか」ということでした。
もちろん、私にもわかりません。
そこで翌日、その子に直接教えてもらおうということになりました。「自分たちに言えなかったことを校長に言えるのは、どうしてなのかを教えてもらおう」などと雑談は続きます。
翌日、その子は「校長先生は何も言わないけど、最後の最後まで横にいてくれる」と教えてくれました。
校長室に入ってきたこの子との対話は「大丈夫か?」「大丈夫と違うから来た」「どうする?」「まず、これをアイツが帰るまでに返して」「わかった」「どうしてやり直すか考えるから」「了解」と、これだけの対話でした。
私自身も気づいていなかったのですが、失敗をして自分からやり直しをするには、どこかに「安心(なんとかなる)のベース」が必要なのですね。
「指導」を「伴走」に変える。この子が教えてくれました。
初出:『教職研修』2021年2月号、10頁。
一部文面を変更のうえ、掲載しています。
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