「オブリビエイト!」:記憶の曖昧さをハリポタで気付かされた話
どうも、Kohです。
冬休みに入り、自由に使える時間が増えてきたので、やりたかったけれどやらなかったことを一つやってみよう!と思い立ち、やってみたら気付きがあったよ、って話です。
やりたかったこととは、
ハリー・ポッターシリーズ(本)を読み直し、
映画ハリー・ポッターシリーズを観直す
というもの。
いやー、ハリー・ポッターシリーズの本は学生時代以来読んでいません。
当時どハマりして、新刊が出るとすぐに本屋に買いに行った思い出があります。
ですので、本は全巻持っています。
それと同じく、映画も映画館で観ていました。
(私は本を読んでから映画を観る派でした)
一応ファンなので、USJに行ってバタービールも飲みました。
後、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』も観にいきました。
ただ、最近できた?ハリー・ポッタースタジオツアー東京にはまだ行っていません。
さて、私のハリー・ポッターファンアピールはこれぐらいにして、本題へ。
※今回は、構成を考える際に私の秘書兼部下兼アドバイザーのChatGPTさんにアイディアを整理してもらいました。
それを元に仕上げました。
記憶の曖昧さを実感する
「記憶って意外と曖昧だな」
と実感したのは、『ハリー・ポッターと賢者の石』を読み終え、映画を観ているときでした。
ハリー・ポッターシリーズを読み直すことにしたので、早速『ハリー・ポッターと賢者の石』から読み始めます。
読んでいる時から、
あれ?こんなシーンあったっけ?
本だけ?映画では再現されていないよな?
と思うところがいくつもありました。
原作(日本語訳)を読み終え、すぐに映画を観ているときも、
こんなシーンあったっけ?
あれ、意外と忠実に再現されている⁉︎
とか思いながら観ていました。
他にも、
ここは、グリーンバックを使っているのかなー?
原作とここは違う!
とか、なんか違う楽しみ方をしていました(笑)
頭の中で覚えているつもりだった記憶と、実際の内容がズレていることに驚き、そしてなぜかその感覚を楽しんでいる自分に気付きました。
もちろん、内容も面白かったです。
私の記憶違いの例
海の上の岩の上の小屋のシーン
例えば、ハリーにホグワーツの手紙を受け取らせないようにダーズリー家が海の上の岩の上の小屋を借りる場面です。
私の記憶では、このシーンは映画で忠実に再現されていないと思い込んでいました。
ハグリッドはダーズリー家に来たよな?と。
しかし、実際に映画を観るとちゃんと描かれていたんです!
嵐の中の小屋が現れれると、
「えぇ、嘘!」と映画を止めてしまったぐらいです
映画館じゃなくて良かった(笑)
「絶対に再現していない」と自信があったのに、それが記憶違いだったことに驚きました。
そして、再現していたことにも興奮。
こんな記憶違いがあるのか!とも興奮。
”金貨の山また山。高く積まれた銀貨の山。そして小さなクヌート銅貨までザックザクだ。“
また、ハリーがグリンゴッツ魔法銀行で金貨や銀貨を見て驚くシーンも私の記憶と違っていました。
小見出しのように、原作では金貨だけでなく銀貨や銅貨も登場していて、頭の中ではそれらがキラキラと輝き、積み上がる場面を鮮明に思い出していました。
それは、映画でも忠実に再現していたなーと思っていました。
しかし映画では意外にあっさりしていて、
こんなに短くインパクトの少ない場面だったっけ?
と少しがっかり。
どうやら過去に読んだ原作の記憶と、自分が映画を観た時の印象、そしてその後に私の中で作られた想像がごちゃごちゃに混ざっていたようです。
このように、私が読んだもの、観たもの、そして自分が想像したものは、私の中でいつの間にか一体化し、新しい記憶として形を変えていました。
強く印象に残っているはずのものほど、「自分はちゃんと覚えている」と思い込みがちですが、実際には少しずつズレていること気付き、少しショック。
それから少し、面白い!と思いました。
記憶と教育
この経験から、「記憶」というものの曖昧さを再認識しました。
教育は、ある意味「記憶を積み重ねる」
先生の仕事は、「記憶に残す、記憶させる」
と言えると思います。
しかし、記憶がこんなにも曖昧なものであるならば、子ども達が記憶したことが時間とともに変化することを前提にした指導が必要だと感じます。
考え方としては、
・記憶は変わるものだから、ちゃんと強化し続けて、正しく記憶してもらう。
・記憶は曖昧なものだから、前の學年でやったからと言って全員がちゃんと覚えているはずはない。だから、復習プリントは絶対行う。
・先生は、こう言いましたよね⁉︎とか自信持って言っていたけれど、もしかしたら言っていない可能性はある。少し自分を疑って子どもと関わる。
とかでしょうか。
記憶した漢字を使っていくうちに、なんか意味が追加されていく。
自分の名前に使われている漢字や友達の漢字、地名など何か縁があり、パッと漢字を見たときに感じることや思い出すことは人それぞれあると思います。
また、漢字で言えば、間違えて覚えるってことも多々あります。
特に書き順や送り仮名なんてそうですよね。
漢字や公式などを「記憶させる」ことを重視しがちですが、その後の成長の中で記憶がどう形を変えていくかを考えることも、先生にとって大切な視点かもしれません。
記憶がかなり曖昧なものであれば、
・漢字の書き順にこだわりすぎない(綺麗に書くとかでは大事です)
・公式を「記憶させる」のではなく、使わせることに重点を置く
・思い出させるために、もう一度テストをさせてみる
とか、意識して指導できそうです。
また、私的には生徒指導の際にも気を付けないとなーと思いました。
何か問題が起こったとき、加害側、被害側、第三者から話を聞いて事実確認をします。
このようなとき、「訊きすぎないように」と先輩から教えてもらった記憶があります。
訊きすぎると記憶が変わるからというのは、当時理解していましたが、今回の件で私の記憶違いを本と映画で実感させられてしまったので、今後さらに気を付けたいと反省しました。
まとめ
今回の体験から、「記憶」というものの曖昧さに驚かされましたが、それは決して悪いことではないと思います。
本や映画を再び味わう中で、新しい発見が生まれたり、過去の自分の記憶の変化に気づいたりすることも、また一つの楽しみです。
この記事では、実践例を挙げるというよりも、私の気付きを書きました。
これから「記憶の曖昧さ」を意識していくことで、面白い実践ができるかも知れません。
その時はまた書きます。
では、みなさん、
「オブリビエイト!」(笑)
(記憶を修正、もしくは消す魔法🪄)