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京都工芸研究会ロング・インタビュー #005 谷口哲也さん(陶芸)

京都工芸研究会では、ベテランの会員さんに工芸の仕事やこれまでのあゆみについてじっくりとお話を伺う「ロング・インタビュー」を連載しております。
第五弾は、京都・五条坂で150年以上清水焼の製作・販売をされている陶泉窯様を訪問し、代表取締役社長の谷口哲也様からお話を伺いました。
谷口さんは京都工芸研究会の事業企画チームにご就任いただいており、若い会員から「頼れる親分」として信頼されています。
※記事及び掲載画像の許可の無い転載、2次使用を禁じます。

谷口哲也氏
  • 昔の五条坂

  • 仕事を継ぐということ

  • ビジネスの師匠は「お客さん」

  • 京都のものづくり=「感性」

  • 「やってみなはれ」の精神

  • アイデンティティ

  • 若い作り手たちへ

昔の五条坂

編:陶泉窯さんも、かなり歴史がある会社ですね。
谷口:創業は明治元年です。京都では若いほうです(笑)。陶磁器問屋として始まったのですが、祖父が向日市に窯を造ってから、制作と卸の「二刀流」でやってます。
編:本社は、創業以来ずっと五条坂ですか?
谷口:はい。お店も自宅も。ですので、子どもの頃の遊び場もこのあたりでした。清水寺の音羽の滝でパンツ一丁で水浴びして怒られたり(笑)、建仁寺の池でザリガニ釣ったり。
編:かなりワンパクですね(笑)。
谷口:いえいえ、おとなしいほうやったと思うけど(笑)。あの当時は、五条坂も今よりずっと幅が狭くてね。山科へ繋がる高架道もまだ無かったんですよ。車も少なかったから、五条坂で野球やったりもしてました。あちらこちらに登り窯の黒い煙が漂ってて、木箱の材料の木材を積んだ荷車を、牛が曳いてたのを憶えてます。
編:当時は、窯元さんも今よりもっと多かったそうですね。
谷口:登り窯もたくさんありましたよ。六兵衛窯さんの近くに、登り窯の燃料にする松割木が山のように積まれていて、専門の職人さんがその木を割る手つきをずっと眺めてました。当時は登り窯を焚く専門の「窯焚き師」という職業もあってね、分業で専門化してたんです。しかし現代ほど技術が洗練されてなかったから、陶器の焼きあがりの歩留まりも悪かったと思います。それでも商品として売っていたし、お客さんは買ってくれた。いわゆる「B品」に対しておおらかだったんやろね。振り返ると、そんな時代が良かったと思いますし、当時の焼き物の「味」を現代で再現するのは、逆に難しいんじゃないかな。

写真左:昔の五条坂と谷口氏 右:登り窯の職人たち

編:この辺り(五条坂)は、毎年8月に大きな陶器祭りがあって、谷口さんは長く実行委員をされていましたよね。
谷口:8月の暑い暑い時期にね(笑)。陶器祭りの発祥は、お盆の時期に六道珍皇寺さんで「精霊迎え」いうのがありまして。六道珍皇寺さんと千本釈迦堂さんが亡くならはった方の霊をお迎えして、五山の送り火でお送りする。それが京都のならわしです。その時期にたくさんの人が珍皇寺さんに来られるので、近くの陶器屋さんがそれに乗っかって、B品や売れ残り品を格安で売ったのが始まりだそうです。当時はどの陶器屋さんにも「丁稚さん」がいてはって。お盆に帰省するときに、その陶器祭りの売り上げを「おこづかい」として持たせてやったとも聞いてます。大正9年から続いている、今では夏の風物詩ですね。

昔の五条坂陶器祭の風景(年代不詳)

家の仕事を継ぐということ

編:大学を卒業されて、すぐに会社をお継ぎになったそうですね。
谷口:立命館大学の理工学部で土木を専攻していてね。橋梁の設計に興味があったんです。
編:窯業ではなかったんですね。
谷口:うん。なんでやろ?わからんけど、分野は違っても「ものづくり」が好きやったんやろね。時代的にも、土木はこれから伸びていく業界だったからかもね。
編:会社を継ごうと思ったきっかけは何ですか?
谷口:うーん……きっかけらしいものは無くて、親にも「継げ」と言われたことはなかったけれど、なんとなくずっと「継ぐんだろうなぁ」という思いはありました。大学の就職課の先生が怖い人でね。土木の勉強をしてきたのに「卒業したら家業を継ぐ」と言ったら怒られるだろうなぁ……と思いつつ打ち明けたら「おう、そうしろ!」と背中を押されて(笑)。
編:(笑)。先代は嬉しかったでしょうね。
谷口:どうやろ?。でも、嬉しかったかもね。今は息子(※陶芸家の谷口晋也さん)も同じ陶芸の道にいるからわかるけど、親としては「継げ」とは言えないし、言ったことは無かった。子どもには子どもの人生があるし。けれど、正直嬉しいよね。
編:(聞き手の一人(漆芸家))私も家業を継いだのですが、父からは「継いでほしい」と言われませんでしたし、継ぐといった時は「厳しい業界だぞ、儲からないぞ」と諭されました。でも、私の知らない所では「息子が継ぐと言ってくれた!」と喜んでいたと人づてに聞きました。
谷口:わかるなぁ、その気持ち(笑)。

取材風景

ビジネスの師匠は「お客さん」

編:大学を卒業されてすぐ家業に入社されたとのことですが、お商売はどなたから学ばれたのですか?
谷口:上司に付いて勉強したのではなく、まさに「体当たり」でした(笑)。車に見本とカタログを積んで、北は仙台、南は鹿児島まで、営業に駆け回ってました。ですから、私のビジネスの師匠は「お客さん」です。今でもそう思ってます。最近は、店に来られるお客さんのほとんどが外国人、卸の取引先は越境EC等となっていて、「師匠」も様変わりしました(笑)。
編:谷口さんのメインのお仕事は、いわゆる「プロデューサー」的なお立場で、職人さんをとりまとめて商品づくりをされているんですよね。
谷口:そうです。でも僕は「職人」という言葉はあまり好きではなくてね。「職人」という言葉には、どこか「指示されたことをやるだけの人」というニュアンスを感じてしまって。言われたことだけするのではなく、自分の感性を大切にしてほしい、積極的に提案をしてほしいと思っています。腕の良い作り手が、進んで自分の頭で考えてする仕事が、よりよいものづくりに繋がると思ってます。
編:ビジネスで心掛けていることはありますか?
谷口:作り手は「作って満足」してしまう人も多いけど、やっぱり「売れて、使ってもらってなんぼ」やからね。「作っておわり」と思ったらあかんね。それと、若い人から相談されることもあるけど、売り手の「上代」が優先されてそこから掛け率を逆算していく考えだと、作り手が疲弊してしまう。だからまず自信を持って下代を決めるべきやと思う。小売店さんはそれをいくらで売っても、いくら儲けてくれても構わない。その代わり、提示した下代はしっかり貰う。これはものづくりのプライドでもあると思うし、責任だとも思う。
編:ものづくりの師匠は、やはり先代ですか?
谷口:親父もそうやけど、産技研(当時の「工業試験場」)にはお世話になったね。当時は浅見先生という方から、本当にいろいろと教えていただいて。それこそ毎日のように通ってました。

写真左:絵付場 右:轆轤場

京都のものづくり=「感性」

編:ものづくりで、昔と今で大きく変わったことはありますか?
谷口:日本にはいろんな陶磁器産地があるけど、京都は「あえて変えることを選ばなかった」街じゃないかな。昔は「作れば作っただけ売れた」という時代があって、それをチャンスに機械化・大量生産した他産地は多いけれど、京都ではあまりそういった流れに乗らなかったように思います。それが「京都らしさ」かもしれませんね。
編:私も聞かれることが多いのですが、「京都らしさ」って、何でしょうね?
谷口:うーん、僕は「感性」やと思う。それがなにかはわからないけど(笑)。昔の他産地では、「京都で勉強してこい!」と言われて修行に来た人が多かったそうですが、それは技術を身に着けるためじゃなくて、京都に身を置いて、生活して、感性を高めてこい、という意味やったと思います。
編:伝統工芸の世界で、京都は憧れの地だったんですね。京都の工芸品は、他産地でよく模倣(コピー)されたという話も聞きます。
谷口:伝統産業の業界では、良い物が世に出ると真似される事が多いです。それはしゃあない。それを恐れて「出し惜しみ」する人もいるけれど、僕は真似されたって全然構わない。真似したいんやったらどうぞ、と思って出してます。色柄や形を真似しても、その芯にある「感性」までは真似できない。自分の感性をしっかり持っていたら、恐れることはないんです。

店内風景

「やってみなはれ」の精神

編:工芸研究会の事業企画チームの会議では、谷口さんはよく「失敗してもええんやさかい、やってみたらええんや」とおっしゃるのが印象的です。
谷口:そう。私は、サントリー創業者の鳥井さんの「やってみなはれ」という言葉が好きでね。いつも自分に言い聞かせているんです。失敗は怖くない。失敗しなければわからないことがあると思います。「こうげい組体操」で開発した「陶胎七宝」は失敗したかもなぁ(笑)。でもこの経験が、いつか何かに繋がるかもしれん。そう思ってまたチャレンジすることが大切なんです。
編:新しいことへチャレンジするには、バイタリティと同時に心の余裕も必要ですよね。
谷口:そう思います。「遊び心」というかね。目先の仕事に追われる毎日では、なかなかチャレンジする気力が生まれない。昔は作り手にも時間の余裕があって、職人さんがひまな時間に手遊びがてら作った石膏型が残っているんですが、それが今見直すとすごく良い味わいなんです。遊び心から面白い物が生まれると思うし、陶芸仕事の合間の遊びでまた陶芸をするんだから、真面目っちゃあ真面目だね(笑)。仕事場が自分の世界だったんだと思います。

写真左:竹工芸とのコラボレーション 右:神祇工芸とのコラボレーション

アイデンティティ

編:谷口さんからは「京都らしさ・日本らしさ」に対する並々ならぬこだわりを感じます。生まれも育ちも京都だからかもしれませんが、それを意識する大きなきっかけはあったのでしょうか?
谷口:きっかけと言えるかはわかりませんが、大学2年から3年になる春休みに、友人とヨーロッパを旅したんですよ。外の世界を見てみたくってね。横浜から船でナホトカに着き、シベリア鉄道に乗ってハバロフスクへ、そこから飛行機でモスクワへ。その後ヨーロッパ各国を周りました。
編:1ドル360円の時代ですよね?その時代に海外へ行くというのは、冒険ですね!
谷口:そうそう。お金が無かったから、どの国に行っても食事はパンに自分で野菜を挟んだものだけ。だから何か国も行ったのに、ご当地の食べ物の思い出は全くない(笑)。
編:思い出が無いことが、思い出ですね(笑)。
谷口:フランスからイギリスに渡る時に飛行機に乗ったんです。せっかくなら日本航空のに乗ろうと。その時、飛行機の尾翼に日航の「日の丸」のマークが大きく輝いているのを見て、ものすごく感激したのを今でも憶えています。
編:それは、異国で日本のものを見たという嬉しさですか?
谷口:それもあるけど、やっぱり日本人としてのアイデンティティを実感したからかもしれないね。そのイギリスで知り合った、日本から研修に来られていた銀行員の男性から「自分のアイデンティティを大切にしなさい」と言われたことも相まって、今でも心に残ってます。それから、茶道や華道を習うようにもなったし、伝統文化の奥深さを知りました。それが京都でものづくりをすることにも繋がっていると思います。よそを見て、京都らしさを知った、というかね。

店舗には今でも京町家の「通り庭」があります

若い作り手たちへ

編:これからの時代を担う、若い作り手に向けて一言お願いします。
谷口:皆様も感じていらっしゃると思いますが、日本の文化、歴史に興味を持つ海外からの旅行者が非常に増えています。これからのビジネスも日本のみならず海外のお客様との取引が増え、また海外へ行き販売や個展を開催する機会も出てくると思います。国境なきビジネスです。
ここで大切なのは、前にも述べましたが日本人として、京都で工芸に携わるモノづくりとしてのアイデンティティがいつの時代も、どこへ行っても非常に大切だと思います。またお客様もそれを感じ取れるものを探していらっしゃると思います。
 かくいう私は、後期高齢者。今までずいぶん長く自分の考えで物事を進めてまいりました。しかし今の私に必要なのは、頭の中の古い部分を破壊し、新たに皆様の力をお借りして再生して、自分の力で創造していくことが大切だと思っています。
あしたもいい仕事をしましょう!


インタビューを終えて

谷口さんは「京都のものづくり」に誇りを持ち、「あかんものはあかん、良いものは良い」というポリシーを貫いている気骨ある姿勢が、京都工芸研究会でも若手ベテラン問わず頼りにされています。新しいことにも意欲的で、SNSでの積極的な発信や、iPadを発売当時から使いこなして、それを西陣織の数寄屋袋で持ち運ぶオシャレの感性からも、学ぶべきことが多いと感じました。
そんな谷口さんの「一本気さ」と、意外なお茶目さ(!)を知ることができました。

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