折々の絵はがき(32)
〈野みち〉池田遥邨 1969年 倉敷市立美術館蔵
厳しい冬のなかば、それまで乾いていた空気にみずみずしい湿度を感じることがあります。ふとした時、鼻をかすめる匂いに昨日までの薄荷のような冷たさはもうありません。自然の移ろいが連れてくるわずかな春の兆しは日常のあちこちにちりばめられていて、宝探しのように目に留まると、自分だけのささやかな発見に小さな笑みがこぼれます。
菜の花、蝶々、たんぽぽ、山吹、チューリップ。ひな祭りのちらし寿司を飾る錦糸卵と、黄色は春を運んできます。どこまでが夢でどこからがうつつかわからない、のどかな光に満ちた道。蝶々は道案内をするみたいにひらひら飛んでいます。柔らかい陽ざしは行き交う人々にまんべんなく降り注ぎ、うつむいた人の襟足も温めてくれそうです。黄色と緑が重なる光景を見ていると、懐かしさとほんの少しの寂しさが入り混じる、言いようのない思いが胸に広がりました。
池田遥邨は日本画家であり、旅人でした。子どもの頃から絵が好きで画家になりたかった彼は早くから歌川広重に傾倒し、東海道五十三次の旅をはじめとして全国に足をのばしています。日本各地を写生してまわり、92歳で亡くなる間際まで創作を続けた遥邨。彼が旅と自然をどんなに愛していたかがこの絵からも伝わってきます。足を止め目をこらし、風を感じ、そっと触れて、彼は全身で景色を味わっていたのでしょう。そうして描かれた絵には遠い日に大切な人から届いた手紙のような懐かしさが漂っています。目の前の景色を味わってごらん。遥邨の声が聞こえてくるようです。
▼ ご紹介した絵はがきのお求めはこちら
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?