人生で最も出会いたい人は誰だろうか。私が聖書を学ぶわけ。
「やりたいことが見つからない」「自信がない」「進路に迷っている」
そういうのって、「自分を知らない」からかもしれない。自分の好きなことや魅力、最も輝ける役割や立ち位置ってなんだろう。
そもそもそういうのって、どうやって知るんだろう?
自分を知らない私たちは、使い手のいないスマホのような存在かもしれない。超高画質のカメラがついて大容量でいろんなアプリが入っている、すばらしいスマホ。でもスマホ自身は、作り手であるエンジニアや使い手の想いや意図を知らないから、「なんか空き容量大きいし、何でも入れられるんだけど、どうしよう」「世界中の建物や道路の情報を制覇しているけど、この能力、どう使おう」「最近出たあの人気アプリを持ってるあのスマホ、なんかかっこいいな。自分なんて」と思っているかもしれない。
私がまさにそういう状態だった。何かに秀でたくて、これだ!と思うものに出会って力を発揮したくて、授業やバイト、2つの学生団体やサークルを並行して進めていた。特に2回生のころは全部を並行して全力でやっていて、学校では単位を落としたことがないし、学生団体やサークルは運営の立場にいたし、バイトも週に3日くらい入っていて、24時間を5分割して生活していた。忙しい中、よく頑張っていたと思う。「すごい!」と周りの人に褒めてもらうことも多かった。
それなのに、「これをやってどうなるんだろう?」という疑問や不安が心の奥底にあり続けた。忙しいのになにか虚しくて、あの人のほうがすごいなあと周りと比べて自信がなかった。就活の時期も迫ってくる。何か、やらないと。何者かに、ならないと。けれど何をしたらいいのだろうか。そんな思いとずっと戦っていたような気がする。
生きる道を探し求めて、自己啓発本や古典を読んでいた。さかのぼればさかのぼるほど、質が良い確率が高いと考えて、できるだけ古い本を読んだ。古代ローマ皇帝、マルクス・アウレリウスの『自省録』はシンプルだけど力のある人生訓に満ちていて、よく励まされた。
それでも、生きるうえでの疑問が完全に解消されることはなかった。当時は、完全に解消されるものとすら思っていなかった。
3回生の夏、大学で本を読んでいた。そのときも古典を読んでいたのかもしれない。覚えていないけど。ある先輩に、ミーティングに使える涼しい場所がないか声をかけられ、あれこれ話しているうちに仲良くなった。「今度、ごはんでもいきましょー」とゆるく約束して、ごはんに行ったときに読書の話で盛り上がり、先輩が聖書を読んでいると聞いた。たしかに聖書って古典中の古典だし、教養を身につけたいと思っていたので興味がわき、先輩に教えてもらってかじってみることにした。そうしたらはまって、人生の問題も解決されたのだった。
聖書と他の本は何が違うのか。
まず、読んでいる人の数が桁違いだ。統計というシステムができる以前から読まれていたので推定でしかないけど、60億部以上読まれている、世界の圧倒的ベストセラー、ぶっちぎりの一位だ。
聖書は創世記からヨハネの黙示録まで66冊の本から成り立っていて、創世記が書かれてからヨハネの黙示録が完成するまで、なんと1500年も間があいている。つまり、会ったこともない時代も全然違うたくさんの人たちによる共同作品だ。「目からウロコ」「豚に真珠」などの慣用表現や、シェイクスピアやニーチェの作品、その他数えきれない作品や思想、文化の源流になっている。
これだけで、聖書がほかの本となにか違うと感じると思う。決定的な違いは、著者が神様であるということ。
もちろん手を動かして書いたのは人間なんだけど、構想を与えたのは神様ということ。私たちはよく、「降ってきた」「ひらめいた」「インスピレーションを受けた」という表現をする。そう、聖書はそのように、神様が人間にインスピレーションを与えて書いた本なのだ。これは聖書にも記されてある。
「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(テモテへの第二の手紙3章15-16節)
ここが聖書のトリセツになっている箇所。霊感とはインスピレーションのこと。ただしただの個人的なひらめきではなくて、「神の霊感」だから、神様からの構想であるということ。そうでないと数千年も残る書物にはならないだろう。
創造主神様は私たち一人一人や自然万物にどんな思いを込めて創造されたのか、どのように生きるのが人間らしく輝けるのかが書かれている本だ。だから「自分が一番幸せに生きる道って何か」「自分の素晴らしいところは何か」の答えが書かれている本なのだ。
聖書を読んでそれらを知ることは、マホは単体では目的や価値を感じられないから作ってくれた人/使ってくれる人に出会って力を発揮するようになるのに似ている。
そんな聖書を読み始めて、人生の問題が解決されていった。読み解いてみると、ファンタジーのような摩訶不思議な話はなくて、全部現実的、実質的な話だ。私の生活に神様とキリストが現れ、大事な存在になったいま。自分と直接顔の見える関係しかなかった私の世界に、すべて創造された根源の存在・神様が現れて世界が広がり、今日目覚めたことも、ごはんが食べられることも快適な家で暮らせることも、祝福として目に映るようになった。
神様を信じずに生きる責任も、信じて生きる責任も、結局は自分が負うもの。
神様を信じなさいと言いたいわけではないが、もし今の生き方に違和感や不安があるなら、根本の思想に触れて、自分の存在の土台や軸を確かめてみるのがいいかもしれない。神様はいつでも優しく迎えてくれる。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28-30節)