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待賢門院(藤原 璋子)・統子内親王


待賢門院(藤原 璋子)

1101-1145年
父:藤原 公実(正二位 行権大納言)
母:藤原 光子(堀河・鳥羽天皇 乳母)
夫-子:
第74代 鳥羽天皇-第75代 崇徳天皇・禧子内親王・通仁親王・君仁親王・統子内親王・第77代 後白河天皇・覚性入道親王

藤原 璋子は7歳で父を亡くし、父の従兄にあたる白河上皇の養女となり育った。1118年、白河上皇の孫の第74代 鳥羽天皇に入内し、後に中宮となった。

翌年、第75代 崇徳天皇となる第1皇子、1122年 禧子内親王を産む。1123年、第75代 崇徳天皇が5歳で即位し、璋子は”待賢門院”という女院号を宣下された。待賢門とは平安京大内裏の12ある門のうち、東面にある門の名称である。

またすぐに通仁親王、君仁親王を産むが2人とも病弱で、重い障害を持っていた。1125年より鳥羽院と待賢門院の熊野参詣が始まる。その後にも統子内親王、後に第77代 後白河天皇となる第4皇子を産む。

1128年、待賢門院の御願で、円勝寺が落慶する。白河天皇が建立した法勝寺の隣接に建立され、後に六勝寺と呼ばれる6つの『勝』を名に持つ寺のうち唯一女院の御願で建立された寺となる。

円勝寺跡
(京都市左京区岡崎成勝寺町)

1129年、白河法皇が77歳で崩御、待賢門院は第5皇子の本仁親王(後に仁和寺の第5世門跡となる)を難産で出産したが、その間に通仁親王が5歳で亡くなる。待賢門院は法金剛院の建立を決断する。法金剛院は双ヶ岡の麓の第55代 文徳天皇の建立した寺院を再興したもので、作庭や仏像などの制作にも待賢門院が直接指示を出した。

1132年、第28代 賀茂斎院となっていた統子内親王が病のため退下し、翌年、禧子内親王が第29代 賀茂斎院となる。しかしこちらも病のため退下したのち両親の願い空しく亡くなり、白河天皇の皇后賢子の墓所・上醍醐に埋葬される。

この頃より鳥羽院は白河院亡き後の皇統や臣官への配慮などから摂政関白太政大臣・藤原 忠実の娘・泰子(高陽院)を入内させ、白河上皇の乳母の曾孫・藤原 得子(美福門院)との間にに1男(後の第76代 近衛天皇)2女をもうける。

待賢門院は1142年に法金剛院で落飾(出家)、翌年長く病を患っていた君仁親王が19歳で亡くなり、その2年後(保元の乱の11年前)、45歳で鳥羽院に看取られながら亡くなった。

待賢門院は、皇后として自分の財産を持ち、人事にも意見を述べ、病の皇子がいたことから子供を全員手元で育てるなどの先例にない行動を選択した。たびたび主催した仏事や、9回もの熊野詣の背景には、子供の病気平癒や供養という目的もあったと思われる。常に役人のパワーゲームからくる讒言や屋敷の火災などにさらされたが、周囲には和歌・武士・僧など幅広い人々が集まり、それは次への時代の基点となった。

法金剛院(京都市右京区花園扇野町)
待賢門院が携わったという法金剛院の庭
鳥羽天皇皇后璋子 花園西陵
(京都市右京区花園寺ノ内町)

上西門院(統子内親王)

1126-1189年
父:第74代 鳥羽天皇
母:藤原 璋子

統子内親王は鳥羽天皇と藤原 璋子の第5子次女として生まれる。

1129年第28代 賀茂斎院として紫野院に入るが、1132年病を得て退下。1145年母を亡くし、法金剛院などを引き継ぐ。

1155年に中継ぎとして即位した弟・後白河天皇の准母となり、女院号”上西門院”を宣下される。1159年 平治の乱では天皇と一緒に一西幽閉される。

源 頼朝は11歳で皇后宮権少進や蔵人として上西門院に仕えた。平治の乱で敗れた頼朝の池禅尼(平 清盛の父の正室)による清盛への助命嘆願には、池禅尼(藤原 宗子)が崇徳天皇の皇子の乳母で待賢門院近臣家出身であり、上西門院から働きかけがあったという見方がある。

母と同様、多くの武士や歌人、僧と関わる生涯を送った。

鳥羽天皇皇女 尊称皇后統子内親王 花園東陵
(京都市右京区花園寺ノ内町)花園西陵の近くにある

『京都遠足』P47
https://www.worec.jp/03kyoto.html