第74代 鳥羽天皇
生まれて間もなく母が亡くなり、祖父の白河法皇の元で育てられた。父の第73代 堀河天皇が29歳で崩御したため、5歳で即位。政治は祖父の白河法皇が行い、白河院政が本格化した。
1118年、白河法王の養女・藤原 璋子(後の待賢門院)が入内し、26歳までに5男2女をもうけた。皇子の2人が病弱に生まれたこともあり、火災で焼失した内裏が再建される間、里内裏(臣官らの提供する屋敷など)を火災や占断で移動しながらも多くの時間を供に過ごした。移動には白河法皇の意向が常に入った。院政となった期間であったため、内裏が再建されても生活する場所は里内裏のままとなり、以降院政が終わってもそのスタイルは踏襲されることになった。
岡崎の六勝寺のうち、最勝寺を建立した。1108年の浅間山噴火や1118年の全国的な飢饉など天災が多く、数度の改元が実施された。また興福寺などの大寺院による強訴が相次いだ。
1123年、3歳の第1皇子・崇徳天皇に譲位。1129年に白河法皇が亡くなって、院政を始める。前関白を呼び戻し、幼い頃より入内の話があったが白河法王の意向で見送りになっていた前関白の娘・藤原 泰子を自分の妻として39歳で入内させ、政治の環境を固めた。
祖父の白河法皇より鳥羽離宮の造営を引き継ぎ、延久の荘園整理令以降の豊富な財政をもとに安楽寿院や田中殿を建立した。1130年に白河法皇の第5皇子・聖恵法親王が高野山で覚鑁を紹介され、鳥羽天皇に高野山復興を願い出られる。覚鑁による病気回復祈願に功があり、鳥羽離宮に北向不動院を開山させた。高野山には伝法院・大伝法院・密厳院の建立をバックアップした。その他、宮島の大聖院など各地に勅願寺を建立した。
1135-41年頃、白河上皇の乳母の曾孫・藤原 得子(後の美福門院)との間に1男3女をもうける。1141年 崇徳天皇から得子との皇子・3歳の第76代 近衛天皇に譲位させる。しかし近衛天皇は1153年17歳で病没する。
璋子との第4皇子が第77代 後白河天皇が、その皇子が二条天皇になるまでの中継ぎとして即位。そのため崇徳上皇の系統は皇統から外れ、崇徳上皇が院政をしく可能性はなくなった。
白河上皇が本格的に始めた熊野詣を鳥羽天皇も好み、妃や皇子、近臣らと熊野に行幸した回数は20回以上を数えた。
崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇という皇子たちの3代、28年にわって院政をしいた鳥羽上皇は1156年54歳で崩御し、鳥羽の安楽寿院の境内に隣接する御陵に葬られた。
『京都遠足』P46
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