北朝初代 光厳天皇
❶光厳天皇の生まれた時代
光厳天皇は、鎌倉幕府滅亡の20年前の1313年に生まれた。両統迭立になってから40年、持明院統を継ぐ者として帝となるべく育てられ、特に叔父の第95代 花園天皇から、厳しくも手厚い教育を受けた。
❷1333年5月9日 20歳での壮絶な体験
叔父の花園天皇は大覚寺統の第94代後二条天皇が早くに亡くなり天皇となった(実際の政は院政により上皇が執り行った)。花園天皇が譲位した第96代後醍醐天皇は12年天皇の座にあったが、譲位するのを渋り、1331年三種の神器を持ちだし笠置山で元弘の乱を起こす。その中、光厳天皇は鎌倉幕府の意向により、神器なしで即位することとなった。
1333年、配流された隠岐島から脱出した後醍醐天皇は、全国の反幕府勢力に対して倒幕を呼びかけた。都は攻められ、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇は六波羅探題に避難した。六波羅探題 北条仲時らは鎌倉への逃避を決め、3人を同行させた。しかし5月9日、番場宿の蓮華寺で行く手を阻まれ、仲時と432名が天皇・上皇らの目前で自刃した。
❸廃位
伯耆国船上山にいた後醍醐によって、光厳天皇の廃位が決定された。5月22日、鎌倉幕府は鎌倉の東勝寺にて滅亡する。
後醍醐天皇による建武の新政期間には、光厳の姉が後醍醐に、後醍醐の皇女が光厳に入内するなど融和策がとられたが、結果的にどちらにも皇子の誕生はなかった。
建武の新政は失敗し、後醍醐天皇に呼応してきた足利尊氏は叛旗を翻す。新田義貞に追われて九州に逃げた尊氏に対し、光厳は義貞追討の院宣を出した。湊川の戦いなどで勝利した尊氏と光厳・花園らは合流、石清水八幡宮、東寺と移動し、光厳上皇の弟を光明天皇にして院政を開始した。後醍醐天皇は吉野に行き、皇位の回復を宣言し(南朝)たが、1339年に亡くなった。
❹院政の16年間
光厳上皇は、初めて現在の京都御所を皇居として、幕府とも協調し、天災や寺社勢力の抵抗に逢いながらも戦乱による混乱を収めるべく院政のまつりごとに没頭した。鎌倉幕府で育まれた合議制システムを朝廷にも取り入れ工夫した。大覚寺統の御所は天龍寺に改め、安国寺利生塔の建立や勅撰和歌集の編纂などを手掛け、文化面での復興にも積極的に携わった。
❺5年間の拉致・軟禁
光厳上皇は足利直義と近しい関係であったが、尊氏と直義兄弟の関係が悪化する。観応の擾乱と呼ばれるこの混乱の中で、光厳・光明・崇光の3上皇と直仁親王は南朝の後村上天皇により石清水八幡宮に来るよう要請され、賀名生(奈良県五條市)、そして金剛寺(大阪府河内長野市)に移され5年間軟禁された。
【関連の史跡】 光厳天皇髪塔(京都市右京区嵯峨天龍寺北造路町)
❻常照皇寺での崩御
1357年に軟禁を解かれた光厳法王は、持明院統の相続などの整理をした後、少人数の供を連れ各地の寺院を行脚した。1363年、都から20km程北の山村の寺常照寺を禅寺に整備し常照皇寺とした。境内には南北朝争乱犠牲者供養塔を建立し、次の年に葬儀は質素にするようになど言い残し崩御した。
光厳天皇は公家・武家政権の移り変わりの中で、波乱の局面に直面しながら、帝としてのバランスを探り保つことに真摯に向き合った。花園法王は光厳上皇の院政期の真っただ中で崩御したが、その教えに生涯かけて応えた。
『京都遠足』
https://www.worec.jp/03kyoto.html
『阪神遠足』P40
https://www.worec.jp/04hanshin.html